菩提心を捨ててはならぬ
【本文】
ムニの王者たちは、多カルパの間思惟にふけって、この善福(菩提心)をまさしく発見した。それが善福であるゆえんは、偉大なる安楽に、無量の人の群を安らかに救い上げるからである。
あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。
生存の牢獄に縛り付けられた哀れな人でも、彼に菩提心が生ずるや否や、直ちに「ブッダの子」と呼ばれ、人間と神々の世界においてあがめられるものとなった。
この不浄の身体を、値のつけられぬほど尊い、ブッダの宝のような身体に変えてしまう--かように甚大な効験のある菩提心という霊薬を、はなはだ堅固に保て。
無量の思慮があって、しかも世界一である隊商の長(すなわちもろもろのブッダや菩薩方)が、よく吟味し、価値多しと認めた菩提心という宝を、転生の巷にさすらいを習いとせる汝らは、はなはだ堅固に保て。
【解説】
一行目から行きましょう。ムニというのは、釈迦牟尼の牟尼で、簡単にいえば聖者のことですね。聖者の呼び名の一つです。聖者の王者、つまり聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々は、多カルパの間--カルパというのはものすごい永い時間の単位なので、ここではとにかくものすごく永い間、ということでいいでしょう--ものすごい永い間、思惟を繰り返した結果、【菩提心】というものを【発見】したというのです。
つまり真理というのは、作り上げるものじゃないんですね。当たり前ですけど。どこかの宗教の教祖がいて、自分の考えで、教義を作り上げるというようなものじゃない。誰が発見しようとしまいと、そこに現前として常に存在するもの。それが真理です。そして【菩提心】も、聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々が、発見した偉大なる真理であるということですね。
そしてこの菩提心の意味合いというのは、はかりしれないほどの多くの人々を、偉大なる安楽へと、救い上げるんだと。
この、【菩提心が多くの人々を救う】という教えは、二つの意味があると思いますね。
一つは、菩薩が菩提心を持つことによって、当然、その菩薩は、自分の解脱だけではなく、人々を救うために修行し、実際に多くの人に教えを説き、修行させ、解脱させるかもしれない。そういう意味ですね。
そしてもう一つは、この【菩提心】という教えが広まり、人々が少しでもそれを学び、考え、瞑想し、実践するようになれば、どんな修行よりも、それは効果があり、カルマの多少悪い人や、おろかな人々でも、速やかに偉大なる境地に引き上げられる、ということですね。
そして私は、後者の意味のほうが大事だと思うし、この経典も、後者の意味のほうを重視しているように思うのです。
というのは、たとえば私は、なんていうか、【人々に、現世的な意味で幸福になってほしい】とは、あまり思わないんです。【人々が、解脱してほしい】とは、少し思います。でも一番思うのは、【人々が、菩提心や慈悲、四無量心などを持ち、育て、確定させてほしい】ということなんですね。なぜなら、それのみが、つまり菩提心を持つことが、その菩提心を持ったその人自身を、最高の安楽、最高の幸福へといざなうからなんです。
だから繰り返しますが、【菩提心が多くの人々を救う】というのは、菩提心を持つ誰かが、多くの人々を救ってくれるという他力的な考えではなくて、この菩提心という教えが広まれば、それを学んだ多くの人々が速やかに救われるという意味のほうが強いと思うんですね。
さて、二つ目の詩。
「あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。」
これはこのままですね。つまりこれは逆に言えば、菩提心のみが、数多くの輪廻の苦しみを破壊し、自分のみならず多くの衆生の悩みを破壊し、そして多くの安楽を受けることを可能にするんだと。だからそれらを実現させたいと思うならば、菩提心を決して捨ててはならないんだと。
つまり【菩提心を持つ】ということは、道徳的に人を愛しましょうとか、そういうことではなくて、【衆生のために私は悟りを得よう】という断固たる決意のことですが、それは非常に実質的に現実的に、自分と衆生の苦悩を除き、安楽を受けさせるという、すばらしい効力があるんだということですね。
三つ目の詩以降に関しても、ぜひよく吟味して読んでほしいと思います。
つまり我々は、生存の牢獄--これは今私たちが生きている人生も含めた、輪廻のことですが--これに縛りつけられた、哀れなものたちなんです。言い方をかえれば、悪魔の王の手によって拘留されている、哀れな囚人なんです。そしてそれは、あのお釈迦様だって、あるいは他の偉大な聖者方だって、ずっと以前は、そうだったんです。哀れな囚人だったんです。しかし彼らに、菩提心--すべての魂のために悟りを得ようという決意--が生じるや否や、【哀れな囚人】だった彼らは、【ブッダの子】と呼ばれるようになり、人間や神々においてあがめられる者に変身したんだと。そこまでのすごい効力が、菩提心にはあるということですね。
霊薬という言葉が出てきますが、これは錬金術と関係があります。錬金術において、ある金属に、その薬をふりかけることによって全く別の金属に変えてしまう--そういうイメージですね。つまり煩悩に満ち、苦しみに満ちた哀れな生き物の身体や心に、この菩提心という霊薬をふりかけるだけで、たちまち偉大なすばらしい身体や心に変身してしまうんだということです。
そしてそれは我々においてもそうなんです。過去のブッダや菩薩がそうだったように、我々も、この菩提心を学び、考え、実践し、心の中で育てていくならば、どんなに悪業多く、どんなに心が汚れ、どんなに苦しみに満ちた哀れな人でも、この菩提心の力によって、大変速やかに、たちまちして、偉大なる【ブッダの子】、すなわち【菩薩】と呼ばれ、人や神々にあがめられるようになるんだということですね。
これは大げさではなく、本当のことだと思います。まあ、人間は無智なので、人間は別としても、菩提心を心に強く保つならば--まあ、まずは最低限、菩提心の意味を知り、その偉大さにあこがれ、自分も菩提心を持とうと決心するだけでも、まず神々に賞賛されるでしょうね。人間よりも智慧のある神々は、その偉大さを知っているからです。神々は、もちろん、お金があるとか、権力があるとか、単に性格が良いとか、顔が良いとか、そんなものは賞賛しません。徳があるとか、煩悩が少ないとか、悟りがあるとか、そういうことを賞賛するわけですね。そして最も賞賛されるのが、【菩提心がある】ということなのです。
だから、このように、さまざまなメリットがある菩提心という宝物を、決して捨ててはならないよ、絶対に、何よりも、お金よりも権力よりも、何よりも堅固に保ち、絶対に手放すな、ということですね。
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