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菩提心を受け保つこと

第三章 菩提心を受け保つこと

【本文】

 すべての衆生の作った、悪道の苦しみを静める浄善を、私は歓喜して喜ぶ。苦しめる者たちに安楽あれ。

 私は、衆生が輪廻の苦しみから解脱するのを喜ぶ。また救済者たちがお説きになる菩薩の境地とブッダの境地とを喜ぶ。

 すべての衆生に利益をもたらし、すべての衆生に善福を授ける教示者の、発心の大海を喜ぶ。

 私は合掌をささげて、一切の方角にまします正覚者に懇願する。――無智のために苦しみに沈める人々に、法の灯火を作りたまえ。

 また、ニルヴァーナに入ろうとする勝者(ブッダ)に対し、合掌をささげて私は懇請する。――無限カルパの間、この世にとどまりたまえ。この世界を闇とし給うなかれ。

 かようにこれら一切を行なって、私が得た浄善――それによって、すべての衆生のすべての苦しみを滅ぼしたい。

【解説】

 大乗仏教や密教には「七支の供養」という修行があります。
 それは礼拝・供養・懺悔・随喜・懇願・祈願・回向という七つの修行によって、功徳を積むというものです。
 そういう意味では、この論書の第一章は礼拝、第二章は供養と懺悔を表現していました。
 そしてこの第三章で、まず随喜・懇願・祈願の表現が出てきます。
 まずすべての善、解脱、発心といったものへの随喜、すなわち喜びと称賛の表現があります。
 そして正覚者たちに対して、どうか教えをお説きくださいという懇願の祈りのプロセス。
 そして、ニルヴァーナに入る資格を持った仏陀に対して、どうかニルヴァーナに入らずに、無限の間この世におとどまりくださいと祈る祈願。
 このようなプロセスの修行によって、この菩薩は大きな功徳を積むことになるわけですが、そうして積み上げられた功徳を、自分の現世的楽しみや、自分だけの解脱のために使うのではなく、「すべての魂のすべての苦しみを滅ぼす」ことにすべて注ぐ――これが回向です。

 そうしてここからは、シャーンティデーヴァの、心からの慈悲の思いの表現が始まります。ここからの部分は、この「入菩提行論」の中でも最も美しくすばらしい部分の一つですね。もっとも、この「入菩提行論」には、「最も美しくすばらしい部分」が他にもたくさんあるのですが(笑)。

 
【本文】

 私は病人の医薬であり、また医者でありたい。病気が完治するまで、その看護人でありたい。

 飲食の雨を降らして、飢えと渇きの災厄を滅ぼしたい。飢饉の時代においては、私は飲食となりたい。

 貧しい衆生のために、私は不滅の財宝となりたい。いろいろの種類の日用品を、彼らの前に供えて奉仕したい。

 すべての衆生の利益を成就するために、私は自己の身体と、財産と、快楽と、過去・現在・未来の三世に積んだあらゆる功徳とを、無頓着に捨て去る。

 ニルヴァーナとは一切を捨て去ることである。そして私の心はニルヴァーナを求めている。もしニルヴァーナを達成するために一切を捨て去るべきであるならば、それを衆生に与えない手はない。

 すべての生類に対し、この私の身は、彼らの欲するままにゆだねられる。彼らが常に我が身を打つもよし、罵るもよし、ゴミをあびせるもよい。玩ぶもよし、嘲笑うもよし、ふざけるもよい。私は身体をもう彼らに与えてしまったのだ。どうしてそれに私が思い煩う必要があろう。
 
 彼らに幸せをもたらす行為ならば、何なりとも、(私を使って)彼らはなすがよい。
 しかし、いかなる場合でも、私のせいで誰かに不幸が起こるということがあってはならない。

 もし私によって、人々に怒りの思い、あるいは清らかでない思いが起こったならば、それは彼らにおいて、常に一切の利益を成就するための原因となれ。

 私を誹謗し、その他損害を加え、また嘲笑する人々――これらすべての人々は、覚醒にあずかる者たれ。

【解説】

 この一連の美しい詩には、シャーンティデーヴァの並々ならぬ覚悟と、海のように深い慈悲心が感じられますね。 
 自分はそもそも解脱(ニルヴァーナ)を求めているんだと。ということは、自分は何も要らないはずだと。この体も、財産も、快楽も、私には一切必要ないんだと。だからそれらを、衆生のためにすべて使うのだと。

 それは、可能ならば、飢えた人々のための食べ物にさえ、私はなりたいと。そのような本当の覚悟で、自分は自分の身体その他を、衆生に与えたんだと。与えたということは、衆生の好きなように、それらを使ってほしいと。皆さんの幸福のために私の身体その他が使われるならば、何なりと、使ってくれと。

 私は完全にそれらを衆生に譲り渡したのだから、私は私の身体その他が衆生によってどんな目に合っても、全く文句は言わないし、全く干渉すべきことではないんだと。衆生がそれで幸せならば、何をされても、私は全くかまわないんだと。

 このような悲痛な――いや、シャーンティデーヴァは悲痛だとは思っていないでしょうが――普通の人から見たら壮絶なとも思える覚悟で、自分の自我を、衆生の幸せのために譲り渡す誓いを、シャーンティデーヴァは為しているわけです。

 そして最後の一文も、すばらしいですね。

「私を誹謗し、その他損害を加え、また嘲笑する人々――これらすべての人々は、覚醒にあずかる者たれ。」

 --つまり、自分のことを馬鹿にしたり、悪口を言ったり、あるいは様々な損害を加える加害者に対して、怒るのでも仕返しを考えるのでもなく、相手の非を叫んだりするわけでもなく、どうぞあなたたちこそ、覚醒に、悟りに至ってほしい、という祈りをささげているわけですね。

 これらの一連の詞章は、客観的に分析すべき法ではなく、これを読む方本人が、心をこめて、読み、決意すべき法だと思います。
 全くこの「入菩提行論」は、徹底して実践的なのです。世界はどうなっているとか、解脱に役立たないどうでもいい現象分析ではなく、これを本気で読み、心をこめて感情移入することで、実際に我々の心が安らぎ、菩薩の道に近づき、解脱に近づくための、極めて実践的な法なのです。

 ですから、他の部分と同じく――もしかすると少し怖い気もするかもしれませんが、勇気をもって――心をこめて、自分の誓いとして、この部分も唱え、瞑想してください。それは皆さんの心を非常に安定させ、広げ、安らがせてくれるでしょう。

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