至高者の祝福(18)「人間の運命」
第二章 第13話 人間の運命
至高者は続けました。
「人間として生を受ける魂は、神の命によって、受精の瞬間に、母親となる女性の子宮の中へ入っていきます。
母親が口にする飲食物から栄養をとり、胎児は、糞尿の貯蔵庫であり、寄生虫の住処である腹の中にとどまりながら、日々成長していくのです。
母親が口にする刺激的な食べ物、熱い食べ物、冷たい食べ物などで、胎児は非常に苦しむでしょう。
母親の子宮の中で、まるで籠の中の鳥のように自由を奪われた胎児は、幾百もの過去世で自分が犯した愚かな行為を思い出し、息が詰まるように苦しみ続けるのです。そのような状況下で、果たして心の平安などがあるでしょうか?
出産間近になると、胎児に宿った魂は、苦しみのうめきを上げながら、主に対してこう懇願するのです。
『ああ、蓮華の御足をされる主よ、衆生のためにあなたは慈悲によって今まで多くの姿をとられて、この地上に降誕され、衆生の恐怖を取り除かれたのでした。そして私はそのあなたによって、自分の犯した悪にふさわしく、この状況に落とされたのです。そのあなたに、私は帰依するのです。
本来肉体を持たない私は、今、五大元素と感覚器官、グナ、そして自我意識などによって構成されるこの肉体の中に包まれました。それゆえ私は、プラクリティと真我の管理者、全智なる最高者であられ、肉体に妨げられぬ栄光を持つあなたを、心から崇拝するのです。
過去と現在と未来に関する叡智を、主以外の誰がわたしに与えてくれるでしょう? すべての衆生に宿る真我は、主であるあなたの部分的顕現なのです。それゆえ私たちは、あなたを崇拝するのです。
他人(母親)の不浄物のたまり場(子宮)に閉じ込められて、消化の炎で身を焼かれる私は、ああ、主よ、いつになればこの牢獄から抜け出せるのでしょうか?
動物などの肉体に束縛された魂は、快不快を知覚する本能を具えるだけです。しかし幸いにもこの私は、自己管理を行なうことのできる、人間という肉体を持てたのです。この私自身としてあらわれる太初の真我の御慈悲によって、私は理性を授けられ、そのおかげで私は、自分の心の内と外に、そのお方を見ることができるのです。
私は子宮の中で、このように苦しい生活を送っています。しかし、ああ、主よ、私はここから出て外の世界に行くのは、もっと嫌です。そこに行くなら、魂は必ずマーヤーに襲われるでしょう。そしてマーヤーに支配されるなら、私は肉体を自分と思い込み、果てしない生死を繰り返す羽目となるのです。
それゆえ、どうか私の心が、主の御足に確立されることのできますように! そして他のものには心を動かさず、最高の友である智性によって、世俗の海から真の自分を取り戻すことのできますように! そうしてもう二度と、このよう生の苦しみを、私が受けることのありませんように!』
魂が、このように子宮の中で主に懇願すると、出産を促すエネルギーが胎児を突き動かし、呼吸もできず、苦しみのあまりすべての記憶を失い、非常な困難を伴いながら、外に出てくるのです。
血と不浄物にまみれて外に出てきた赤子は、まるで糞便から湧き出た蛆虫のように、身もだえしてのた打ち回ります。そして子宮の中で得た智慧をすべて失い、いまや肉体を自分と思い込み、大声で泣き始めるのです。
その哀れな生き物は、かゆくても自分の体をかくことさえできず、座ることや立つことも、自分では何一つできない有様です。
幼年時代から少年時代を、彼は苦悩に満ちて成長していき、やがて成年に達して、自分の望みがかなわず嘆くようになり、そして無智により怒りに燃えるでしょう。
歳とともに彼の自尊心と怒りは増大していき、感覚の楽しみを求める彼は、同じものを求める他者と争って、やがてその身を破滅させるのです。
間違った理性を持ち、存在せぬものに固執する愚かな魂は、五大元素でできた肉体を自分だと思い込み、輪廻の原因となる愚かな行為を行ない続けるのです。
もし性や舌の楽しみを求める享楽的な人々に影響され、自分もそれらを喜ぶようになるなら、彼は再び地獄界へと落ちていくでしょう。
不道徳な愚か者、女の言いなりとなった者、自分を肉体と同一視した哀れな者、こういう者とは、人は決して付き合ってはならないのです。もしそのような者と関わるなら、自分が持つ真実や誠実さ、純潔、慈悲、心と感覚の制御、智慧、謙虚さ、忍耐などのすべてが消えてしまうのです。
異性への愛着、または異性を好む者との交際でもたらされる誤謬と束縛は、他の何よりもひどいものです。
ああ、異性という姿をとる、この私のマーヤーが持つ力を見るがいいでしょう。世界を征服した帝王までもが、彼女が少し眉を動かすだけで、その足元に踏みつけられてしまうのです。
ヨーガの最高地点に到達したいと願う者、または私をあがめて自分の本質を悟った者は、決して若い異性と親しくすべきではありません。それこそが地獄への門であると、聖典ははっきりとそう宣言しているのです。
異性というマーヤーは、ゆっくりと人を罠に陥れていくのです。異性は自分にとっては死そのものだと、そのようにみなさねばならないのです。
肉体が活動を停止したとき、それが死と呼ばれ、魂が新たな肉体を自分自身とみなし始めるとき、それを誕生と呼ぶのです。
それゆえ人は決して死を恐ろしいものとみなしたり、また物を惜しんだり、無明に陥るべきではありません。人は魂の真の性質を悟り、執着を捨てて、目的をしっかりと見据えて生きるべきでしょう。
ヨーガの修習と離欲によって、正しい智性を強めつつ、人はこの幻の人生を生きていくべきなのです。」
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