yoga school kailas

至高者の祝福(10)「自由と束縛」

第二章 第五話 自由と束縛

 マイトレーヤがこのように話したとき、ヴィドラは、次のような質問をしました。

『ああ、神のごとき聖者よ。主は純粋な意識そのものであり、また不変であられ、決して限定を受けることがありません。そのようであられる主が、リーラー(神の遊戯)といえども、どうして属性や活動などと関係を持つのでしょうか?
 ご自身において満足され、永遠にただ一者であられる主が、どうして他と遊ぼうとされるのでしょうか?
 主の本質である完全なる叡智は、いかなる外的条件によっても、かすむことはありません。であるのにどうして主は、マーヤーと関係を持たれるのでしょう?
 すべての身体の中には、ただ主だけが宿っておられます。しかしだとするならば、主に不運があり、カルマによる苦悩があることになりますが、どうして主にそれらがあるのでしょう?』

 真実を知りたい一心のヴィドラの質問で、話の腰を折られたものの、自尊心を全く持たない聖マイトレーヤは、主に心を固定して、微笑んでこう返事したのです。

『プラクリティの支配者であり、かつ完全に自由である真我が、自分は不幸だと思うとか、束縛されているなどと考えるのは、全く道理に反しているのです。しかしまさにこれこそが、主のマーヤーといえるのです。
 人が夢の中で首を切られたと思うように、実際には束縛を受けない魂は、マーヤーによって、束縛されているように見えるのです。
 また、月そのものは震えたりしないものの、それが水に映るや、月が震えているように見えるでしょう。同様に、自分を肉体と同一視した魂は、肉体が受ける喜びや苦しみを、まるで自分が受けているかのように錯覚するのです。
 この間違った同一視は、主への信仰を深めることで解消されるでしょう。そしてこれは至高者の御慈悲で可能となり、その慈悲は、自らの使命を無私の心で果たすこと与えられるでしょう。
 感官を対象から引き離し、それを至高者に結びつけるなら、夢から覚めた人のように、すべての偽りの幻影は消えてしまうでしょう。
 愛をもって主の蓮華の御足の塵をあがめるなら、すべての苦しみが除かれるのです。』

 聖マイトレーヤの答えを聞いて、ヴィドラは言いました。

『ああ、私の疑問は、理にかなったあなたの説明により、すべて解消してしまいました。今や私の心は、主は永遠に自由であり、個々の魂は束縛された存在であるということを、正しく理解することができました。
 魂の束縛は至高者のマーヤーによってもたらされ、そのような束縛は実際には何の実体も基礎も持たないのだと理解しました。なぜなら宇宙そのものが、主のマーヤーによって展開されたものだからです。
 「最も無智な者」と「主を悟った人」だけが、何の不安もなくこの世で生きていけるのでしょう。しかしこの両者の中間に存在する「疑いの心を持つ人」は、絶えず苦しみながら生きていくのでしょう。
 実在するように見えるこの物質界は、すべて非存在であるということを、私は理解することができました。あなたの御足に仕えるなら、その偽りの幻影も取り除けるに違いありません。
 輪廻の苦しみを終わらせる、偏在される主マドゥスーダナ(至高者クリシュナ)の御足へのバクティは、あなたのような献身者の御足に仕えることで芽生えるのです。
 神々さえもがあがめる、至高者の栄光を歌う献身者は、至高者へと続く、生きた入り口なのです。わずかしか苦行をなさぬ者にとって、そのような主の献身者に奉仕することは、用意には手にできない幸運なのです。』

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする