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至高者の祝福(1)「宇宙に遍在する至高者への集中」

「至高者の祝福」

 この「至高者の祝福」と題したシリーズは、ヒンドゥー教の聖典である「バーガヴァタ・プラーナ」を骨子とし、修行に関係ある部分で、皆さんに利益があると思われる部分を、わたしなりに要約し、若干の付加を行なったものです。
 ですから純粋な原典の紹介ではなく、わたしなりにまとめなおしたものです。
 「バーガヴァタ・プラーナ」そのものに興味がおありの方は、星雲社より全訳が発刊途中ですので、そちらをお読みください。

第一章

第一話 宇宙に偏在する至高者への集中

 アルジュナの孫であるパリークシット王は、聖仙シュカに言いました。

「ああ、最高のヨーギーの教師よ。
 わたしはあなたに質問します。
 最高の悟りとはいかなるもので、どうすればそこへ至れるのでしょうか。
 また、絶えず死のふちにある人間は、すべての環境において何をすべきなのでしょうか。
 そして、一般の人々は何をなすべきか、彼らは何を聞き、何を語り、何を心に思い、何によりどころを求め、何を避けなければならないのでしょうか。」

 聖仙シュカは答えました。

「王よ。これら世界の幸福につながるあなたの質問は、まことに歓迎すべきものです。なぜならこれらは、真我を知る者に高く評価され、また聞いて記憶し、唱える価値ある中で、最も重要なことだからです。

 家庭に束縛された人、真我を知らぬ者たち、彼らの一生は、夜は眠りと性交に費やされ、昼は金銭を得ること、家族を養うことなどで、矢のように過ぎていくのです。
 自分の肉体や、妻や子供など、それら非実在な対象への狂ったような愛着により、すべての者は死ぬということを想像できなくなっているのです。
 
 死において肉体を離れるときに『主なる至高者』を思い出せること、それこそが人として生まれた最高の報いであり、それはジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、またはカルマ・ヨーガ、このいずれによっても獲得できるでしょう。

 自分の重大事に少しも気づかぬ者にとって、無意味に過ぎていく長い人生の年月が、果たして何の役に立つでしょうか? しかし最高の善のために努力して、よく自覚してすごすなら、たとえ短い人生でも、その時間は最も貴重なものへと変わるでしょう。

 死の時が自分に近づいたなら、自分の肉体、そして他のすべての愛着を、人は無執着という剣によって断ち切らねばなりません。
 よく自己を制御して、家庭を離れ、神聖な河や湖で沐浴し、人里はなれた静かな場所で、聖音オームを心の中で繰り返し唱えるのです。
 さらに自分の呼吸を調節し、自分の心を制御するように努めるべきです。
 心を外的対象から引き離し、絶えず動こうとする自分の心を、理性の働きによって、祝福に満ちた主のお姿に固定するのです。
 人は、いずれかの主のお姿を、心を集中して思わなければなりません。そのようにして外的対象から心が引き離されるやいなや、心は主への思いに吸収され、もはや何も考えはなくなるでしょう。そのような境地こそが、主の最高の実相であり、それを得ることで、心は神聖な愛に満たされるのです。
 もしそのように努力する途中で、ラジャスやタマスに支配されそうになったなら、賢明なる者は、ダーラナー(精神集中)によって、それらを消し去るべきです。
 そのように心を集中するなら、彼は必ずや、愛すべき主を眼にすることができるでしょう。そしてそのときにこそヨーギーは、バクティという名のヨーガ(神との合一)を獲得することができるのです。」

 パリークシット王は再び尋ねました。

「ダーラナー(心の集中)とは、どのようになせばよろしいのでしょうか?
 そして聖典においては、それは何を対象とすべきと書かれてあり、またどのような集中が、心のけがれを取り除く最も迅速な方法なのでしょうか?」

 聖仙シュカは答えました。

「呼吸をよく制御し、執着心を制圧し、感官を抑制し、理性の力によって、自分の心を、至高者の『形あるお姿』に固定するのです。
 壮大な中でも最も壮大である、全宇宙に遍在する至高者のお姿、過去・現在・未来のすべての宇宙がその中に顕現するそのお姿こそが、心を集中すべき対象なのです。なぜならこのお姿を離れては、宇宙には何一つ存在しないからです。
 人は夢の中で、さまざまな姿に自分を投影するでしょう。それと同様に、理性を通してすべてを経験するのは、ただ一者なる、純粋観照者である真我なのです。祝福の宝庫であるこの真理の源にこそ、人は心から帰依すべきであり、他の一切の外的なものには執着すべきではありません。なぜならそのような執着こそが、魂の堕落をもたらすからなのです。」

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