自我の放棄と慈悲と帰依
瞑想において、自我や二元性のとらわれから解放され、
また日常生活においても、そのような自我や二元性のとらわれを放棄する修習を繰り返していると、
完全ではないけれど、自我が極端に弱まってくることがある。
そのときの感覚は、なんというか、
たとえば誰かに自分のことを評価されても、まったく実感がない。
誤解を恐れずに言えば、生きているという実感もない。
蜃気楼のように、風のように、なんとなくある。
ただカルマから来る現象だけが、生じては滅していく。
自分はそれをただ見ている。
ではこの聖者は、全くの無味乾燥な、無機物のような存在なのだろうか?
そのようなパターンもあるかもしれない。
しかしよりすばらしい修行においては、
そもそも「帰依」と「菩提心」を土台として、修行を組み立てていく。
帰依と菩提心は、そもそもその人が自我を放棄する上で、大変力になってくれる。
そしてその人が自我から実際に解放され始めたときも、大変力になる。
帰依とは上からの恩恵を与え、
菩提心は下から積み上げる恩恵がある。
自我から解放され始めたとき、
もしそれまでにしっかりと帰依と菩提心の修習ができていると、
自我がないのに
神の祝福により、すばらしい喜びがある。
自我がないのに
神の祝福により、なすべきことがなされる。
自我がないのに
ただ菩提心というプログラムが、自動的に働き続ける。
ただ純粋な菩提心というプログラムと、
純粋に神の世界から降りてくる使命の遂行
その両者に付随する、清らかな喜び。
このような中で、聖者は生きていくんだなあ。
だから、菩薩や聖者を目指す者は、
帰依と菩提心(四無量心)の修習を怠ってはいけない。
間違って自我の放棄に成功してしまったとき、
帰依と菩提心をしっかりやっていないと、そこには何もなくなってしまうから。
帰依と菩提心をしっかりと修習していると、
実際に自我が弱まってきたとき、
神の意思は、ストレートに、自分の中に降りてくる。
菩提心は、ストレートに、その人の生き方を決定する。
私は菩薩になったのだとか、目標を達成したとか、みんなから称賛されるとか、非難されるとか、そんな想いもどこにもない。
ただただ、神の意思と、菩提心の修習のみが、その人を成立させている。
このような境地に少し足を踏み入れた後も、注意が必要だ。
落とし穴はたくさんあるからだ。
油断すると、すぐに以前の二元的世界、自我意識の世界にひきずり落とされる。
実際、菩提心や神の意思の実践を続けていると
強烈に人々に称賛されたり、
逆に強烈に非難されたり、
多くの苦悩と喜びが、人生にやってくるだろう。
そのような荒波に巻き込まれ、強い自我の世界に再び落ちてしまう危険性もある。
しかし真の聖者の道を歩む者は、それを覚悟で、やらなければならない。
帰依と菩提心を放棄して、この世から去ってはいけない。
衆生のために、そして神への愛のために
ただただ、聖者として、菩薩として、生きるのだ。
ただただ神の愛にこの身を任せ、
何が良いとか悪いとか、自分では決めず
ただただ神への誠実な愛と
衆生への誠実な慈悲を持ち、育て、
この輪廻の中で、自我の放棄の状態をキープする。
後に起こることは神任せ。
すべては起こるべくして起こる。
すべては完璧であり、喜びである。
自我意識のみが、その完璧さを汚す。
神に心を任せ、その身を任せ、
自我意識を放棄し、
神への愛と、衆生への慈悲のみによって、生きてください。
それはあなたに、最高の平安と喜びをもたらすでしょう。