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聖者の生涯「ナーロー」④(5)

◎輪廻を洗い清める

【本文】
 再びナーローが旅を続けていると、生きた男の腹を切り裂き、胃をお湯で洗っている男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、俺を手伝ってくれ」
と言いました。しかしナーローが断ると、男は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『深遠な教えの水で
 輪廻を洗い清めることなくして
 どうしてグルを見出せようか。
 輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、
 習慣を形成する思考の汚物を表わしている。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。

 はい、ちょっとね、若干似たようなまた現象ですけれども――まあこれは実際似たようだけども、ちょっと違います、この次の幻影はね。これは何かっていうと、今度は死体ではなくて生きた男――実際に生きてる男がいて、その生きた男の腹を切り裂いて、その胃をお湯で洗っていると。こういう状況ですね。そこでまたナーローはその手伝いを断るわけだけど。で、そこで出た詞章が、

『深遠な教えの水で
 輪廻を洗い清めることなくして
 どうしてグルを見出せようか。
 輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、
 習慣を形成する思考の汚物を表わしている。』

 これはさっきとの違いは、もちろんこの男が生きているってことですね。生きた男。で、その男の腹を裂いて中の胃をね、お湯で洗ってると。
 はい、まずここで考えなきゃいけないのは、

「輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、習慣を形成する思考の汚物を表わしている。よって、深遠な教えの水で輪廻を洗い清めなきゃいけない」

――この辺はさっきから言っていることとも繋がるけども、「輪廻の本性」っていうのは、実際は束縛でもなくけがれでもない。これはちょっとさっき言ったことと矛盾するかもしれないけど――つまり輪廻っていうのは、さっきちょっとわたしが言ったのは、「輪廻っていうのは本当は存在しないんですよ。すべてはただ過去の経験からくる束縛、過去の経験の鎖にわれわれが縛られて、輪廻っていう幻影が見えてるに過ぎないんですよ」――これがさっき言った話だね。「実際はここには何も無いんですよ」と。でも実はもう一段高いっていうか、深い教えがあるんです。それは――ちょっとこれはこんがらがるかもしれないけどね――「輪廻あります(笑)。でも、あなたが輪廻って呼んでるそれは、実はもともと完成された清浄なる仏陀の浄土のようなものですよ」と。

◎生きた男の腹を切って洗うこと

 これはね、ちょっとこんがらがるかもしれないけど、別の言い方をすると――これはさ、教えの深みの違いでもあるんだね。例えばこの世っていうのがあるよね。例えば地球っていうのがあって、われわれには人生っていうのがありますと。これをどう見るか。お釈迦様が説いた第一の教えは、いつも言うように「苦」という教えなんです。「苦」。つまりこの世は苦ですよと。ね。だって見てみなさいと。世界を見れば、多くの苦がはびこっているじゃないですかと。あるいは自分の人生をみても、多くの苦しみで一杯だと。一見ね、いいことが続いて楽しいことがあるようにみえるかもしれないが、リアルに人生っていうものを、あるいはこの世界っていうものを見てみたら、苦しみの塊であると。この世が苦しみの世界、苦しみの大陸であるっていうことをまずはしっかりと認識しなさいと――これが第一の真理だね。これはこれで正しい。よって、その苦しみから脱却しなきゃいけないわけだけど。
 で、より深い大乗仏教になってくると――この輪廻が苦しみだからニルヴァーナという素晴しい世界に解脱するんだっていうのが基本的な教えなんだけど、大乗になってくると、そもそも、実は輪廻って無いんだよっていう発想になってくる。これがさっきから言っていることだね。輪廻ってもともと無いよと。輪廻っていう実体のある苦しみの世界があってそこに縛られてるんじゃなくて、もともと無いんだよと。全部、妄想ですよ――っていう世界に入ってくる、今度はね。これは多分みなさん理解しやすいでしょう。
 で、恐らくみなさんのカルマっていうかな、カルマとか知性からいって、おそらくこの話が一番しっくりくるかもしれません。一切は実は無いんですよ。夢のようなものですよ。妄想ですよ。だから、その妄想から醒めなきゃいけませんよ。妄想から醒めたら、そこには仏陀の境地しかありませんよ――これは分かりやすいね。
 しかしもうちょっと深いところにいくと――輪廻ありますよと(笑)。でもその輪廻っていわれるものの正体は、正体そのものが実は仏陀の世界なんですよと。清浄なる悟りの世界そのものなんですよと。それをあなたは勘違いして、けがれた輪廻としてね、けがれた世界、苦しみの世界として見ているだけなんですよと。じゃあ、もともと清浄なるものをけがれたものとして、苦しみの世界としてわれわれは見ているわけだけど、で、それを清浄なるその本性の状態に戻すにはどうしたらいいのか――それがここに書いてある、「深遠な教えの水で輪廻を洗い清める」と。
 はい、「深遠な教えの水で輪廻を洗い清める」って一体どういうことなのか。これもさっきから言ってることなんですが、これが実はこの「生きた男の腹を切り裂く」という表現と大きな関わりあいがある。
 つまりこれは何なのかっていうと、この「生きた男」です。生きた男の――ちょっとこれはね、イメージ的に言うので伝わるか分からないけど、イメージ的にね、受け取ってほしいけども――生きた男の腹を切り裂き、洗わなきゃいけないんです。で、これはナーローにとっては、このヴィジョン自体は第三者的なヴィジョンなんだけど、すべて自分の心の現われと考えるならば――実際にもうちょっと分かりやすく言うならば――自分でですよ、例えば自分の腹を切り裂いて、自分の内臓を洗わなきゃいけないとか、そういう状況なんだね。
 これは何を意味しているのかっていうと――もう一回言いますよ――「深遠な教えの水で、輪廻を洗い清めなきゃいけない」――これは、さっきから何度も繰り返してる、実際にこの輪廻といわれる、苦しみばかり矛盾ばかり、あるいは激しいいろんな無常なる世界の中に身を置いて、教え通り生きる。教えによって自分の考えを浄化する――それはさっきわたしが挙げた例えみたいにね――例えば、自分を裏切った人物っていうのが登場しているわけです、すでに。それでも教えには「その相手を愛せ」って教えがある。「愛せません」と。「でも一生懸命頑張って修行して、その相手を愛せるようになりました」と。ここで、ここでいうところの輪廻の洗濯っていうかな、輪廻の洗い清めがちょっとひとつできたっていうことになる。
 つまりここで、ね、何度も言うけども、皆さんに伝えたいのは、この「生きた男の腹を切って洗う」っていう――これが何を意味しているのかっていうと、それだけわれわれの修行っていうものは、生々しく、グロテスクで、そして――何ていうかな、まあ、生々しいって言った方がいいかもしれないね――机上の空論じゃないんです。生々しいんです。生々しくわれわれは、自分のけがれっていうものを見せられて、ぶち当たって、何度も挫折しそうになりながら、その生々しい状況と戦い、乗り越えなきゃいけないんだね。これがその「生きた男の腹を裂き、中の胃を洗う」――それが輪廻の洗い清めだっていう表現ですね。
 で、もう一回言うけども、それは教えによって洗い清めなきゃいけない。だからもうちょっとまとめるとね――われわれはまず教えをしっかりと学ぶと。教えを学んで、教え通り生きようっていうまず決意を固めると。最初はいいです。最初は、ねえ、例えばこのカイラスとかもそうだけどね。最初は楽しくヨーガをやり、で、「ああ、なるほど。こういう教えなんですか」と。「じゃあ、ちょっとずつ頑張っていきます」って感じなんだけど(笑)、だんだんその人の心が、さっきも言ったように、神と強く繋がれてくると、いろんな試練が与えられてきます。あるいは、新しく試練が与えられるっていうよりも、今まで曖昧にしてきた自分のいろんな問題が、バーッと表面化してきます。で、それとぶち当たらなきゃいけなくなる。
 で、ここで、何度も言うように、教えというのは机上の空論であってはいけないので、逃げられなくなるわけだね。それを教えによって何とかしなきゃいけないっていう段階に入ってくる。
 これはね、もう個別の例は挙げられないので、みなさんそれぞれ心の中で考えたらいいと思います。わたしもね、わたしですら――わたしですらっていうか、わたしは中学生くらいからヨーガとか仏教の修行を始めてるわけだけど、わたしも最初のころはいっぱいありましたよ。いっぱいあったってのは、何がいっぱいあったかって言うと、まず教えを見ますよね。「なるほどこうか! そうか! でもこれは置いておこうかな、ちょっと」と(笑)。

(一同笑)

 「この教え通り行くなら、これを何とかしなきゃいけないんだけど、ちょっと保留」と(笑)。

(一同笑)

 「今すぐには無理」と。「この問題に対して、教え通りにバッて行くのは、ちょっと今あり得ないかな?」と(笑)。「まあちょっと将来を期待して、置いとこうかな」と(笑)。そういうのがいっぱいあるんだね。そういうのがいっぱいあるんだけど、でも一生懸命頑張って教えを学んで、あるいはいろんな行法とか修行もして、自分がだんだん浄化されてくると、もう逃げられなくなってくるんだね。もうずーっと保留にしてた問題が目の前にやってきて、「あ、そろそろですか」と。でもそのころにはね、自分もだいぶ強くなってるから「対処できるかな?」ぐらいの感じになってくる。前はもう到底無理だったのが、何とかできるかもしれないなって感じが出てきて、で、ぶち当たるわけだね。
 でも、それは成功するとは限らない。そこでまた挫折っていうか、自分の悪い部分が出てきちゃって、その悪い部分に飲み込まれて後退する場合もあるね。まあそれはそれでしょうがない。そういうことを何度も繰り返して、進んだり後退したりを繰り返しながら浄化していくんだね。これが「教えによって輪廻を洗い清める」。あるいは「生きたまま内臓を取り出して洗う」ようなことですね。
 まあ、だからもう一回言うと、いってみればこういうことを言うと怖くなるかもしれないけど、修行なんてものは、生きたまま内臓を取り出して洗うようなもんなんだね(笑)。それだけ怖いし、痛いし、生々しいんです。修行っていうのはね。これはみなさん、長く修行している人は分かると思うし、これからみなさんもね、長く修行していくと分かってくると思います。そんなかっこいいものじゃない。
 例えばムドラーとかやって、終わったころには「おっ、聖者になってます」(笑)――そういうもんじゃないよね(笑)。ムドラーとかそういう修行っていうのは、準備作りにはなる。自分の意識を高めて、「さあ、高まったから問題消えます」じゃないんだよ。「高まったから、問題と対処できるかもね」っていう状態なんだね。「やっとできるかもよ」と。で、その対処するときは、何度も言うけど、生々しい。生々しいし、本当にもう自分が打ち砕かれるような気持ちのときもあるし。それは何度も言うけど、小さいころからつくってきたもの、あるいはもっと言えば過去生から、生まれる前から持ってきたもの。いろいろあるわけだね。それを最終的にはですよ、みなさんがもし仏陀になろうとしたら、オールクリアーにしなきゃいけないわけだから。一切ごまかしは駄目なんです。
 何度も言うけどさ、小乗的な「とりあえずニルヴァーナに入る」っていう場合は、別に置いておいてもオッケーです。置いておいて、とりあえず心のスイッチをオフにするっていうかな。それでパッとニルヴァーナに入るやり方はあるけども、それはまあ本質的ではない。やっぱりそうじゃなくて、完全な悟りを得たいと思ったら、生々しい、自分がずっと作ってきて、そして放っといてきたものとぶつかんなきゃいけない。
 で、これはね、普通に現実的にそういう現象が現われるっていうこともあるけども、もうひとつは、瞑想で経験することもあるね。瞑想で自分の深い生々しいドロドロとしたものと対峙してね、それを浄化する作業を瞑想でしたりとか。
 あるいはその中間的なものとしては、何か現象があるわけじゃない、現象があるわけじゃないんだけど、自分のけがれみたいなものが、何ていうかな――ちょっと言葉では表現できないような感覚として、日々感じられるようになってくるときがあります。これはこれで教えでしっかりと対処しなきゃいけないんだけどね。
 でも、とにかくすべては生々しい。いってみれば、いつも言うように、この輪廻のヴェールを一枚剥がすと、非常に生々しい状況があります。ちょっとね、今言っているのは――まあいつもこういう話はそうなんだけど、ちょっとなかなか言葉では伝えづらいことを、何とかね、こう伝えようとしているわけですけど――例えばですよ、みなさん――この中でホラー映画とか猟奇的な映画とか好きな人がもしかしたらいるかもしれないけど、もちろんそういうのはあまり見ない方がいいね。見ない方がいいけども、一応ちょっとこれは題材としてね――例えばみなさんがイメージできる限りのいろんな苦しみや、あるいは気持ち悪いことってあるでしょ? つまりいろんなそういう猟奇的なね、いろんな気持ち悪い殺人とか、あるいはそうですね、まあ事故でもいいけども、体が本当にグチャグチャにされるような事故とか。あるいはもっと人間関係的なことでもいい。人間関係的に、本当にもうあり得ないような心をズタズタにされるような出来事とかね。あるいは、もちろん実際の日々の事件とか事故のね、ニュースで挙がるようなことでも、本当に気持ち悪いような、目を覆いたくなるようなことがいっぱいある。あるいは、さっきから言ってるホラー映画とか猟奇映画とかで題材にされるような気持ち悪いシーンとかいっぱいある。あるいは、本当にちょっとカルマの悪い人っていうのは気持ち悪いのが好きなわけだけど(笑)、そういう気持ち悪い漫画とかね、いろいろあると。そのような、おどろおどろしかったり気持ち悪かったりする世界っていうのは、つまり人間が想像できるっていうことは、「ある」んです。あるっていうのは、われわれの心の中に、あるいはわれわれの瞑想世界にあるんです。で、その今普通にわれわれが想像できる「うわー、気持ち悪い」「うわー、何だこれは」「うわー……」って目を覆いたくなるようなことの百倍・千倍ほどのけがれで、われわれの心は満ちていると考えてください。で、それを教えっていう洗剤で浄化に行かなきゃいけないんだね。
 それは、自ら行かなきゃいけないんです。自ら行くっていうのは、誰かに頼めない。掃除人を雇ったりできないんだね。自分で手に教えっていう洗剤を持って、もう本当に普通だったら一歩もその部屋に入れないような、あまりにも苦しく気持ち悪い部屋に入っていって、掃除しなきゃいけないんです(笑)。これが――そうですね、ある段階からの修行だと思ってください(笑)。ね。
 ある段階からのっていうのは、さっきから言ってるように、最初のうちはそんなに深刻ではない。そんなに深刻ではないんだけども、だんだん真に迫ってくるにしたがって、そういったものとも対峙していかなきゃいけないっていうことだね。
 はい、何かシーンとしちゃってますけど(笑)――はい、じゃあここまで何か質問その他ありますか? 
 今のこのパートの説明は、前半と後半でね、ちょっとこう、レベルの違いがある。だから今最後の方に言った話、後半の話っていうのは、まあちょっと特殊な話だと思ってください。特殊っていうか、ちょっとこう秘儀的な話っていうかな。ちょっとこう、何ていうかな、一枚ヴェールを取った話だね。
 そうじゃなくて、前半に言った話の方が、現実的には大事です。つまり、日々のいろんな出来事を、教えによってね、浄化していくと。で、そこで出てくるいろんな痛みや、いろんな苦しみや生々しさに負けずに教えで浄化すると。で、教えで浄化されたあかつきには、その生々しさや苦しさや痛みっていうのは当然消えるわけだね。同じ現象が現われたとしても、全くそれが関係なくなってしまう。これも教えで浄化された状態だね。だからすべてをそのように浄化しなきゃいけないっていうことですね。

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