結果に触れることによって
たとえばここに解脱した聖者がいたとして、
彼はこういう生まれで、もともとはこういう性格で、こういうけがれを有していました……これは「土台」である。
そして彼が実践した様々な修行、そしてその修行の実践による様々な体験、神秘体験、気付き、段階的な悟り……これらは「道」に属する真実である。
しかしその聖者が本当に解脱したならば、彼は「結果」であるところの本当の真実にたどり着く。少なくとも「それ」に一度でも、少しでも触れたとき……彼にとって前述の「土台」や「道」に属するものはすべて幻となる。言い換えれば、もともとそんなものは過去にも、未来にも、現在にもなかったということになる。
確かに土台や道があったがゆえに結果に到達したはずなのだが、結果に到達したことによってその土台と道がもともとなかったということになるのが面白い。
ただしそれは正確には、過去とかがなくなるということではない。もともとないというか……全然違う次元に入るというよりも、偽りの夢から覚め、真実を一度でも垣間見ることによって、再びこの偽りの夢の中に戻ってきても、彼にとっては「土台」も「道」も、もはや模様だけ残っている燃えた絨毯の灰のようなもので、形と名前だけの、何ら意味も実体もないものとなる。
よって多くの聖者は、あまり過去のことを語りたがらない。彼が自分の過去のけがれや修行の経験について語るのは、ただ弟子や後進の者たちへのアドヴァイスや励ましのためだけである。
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