神への誠実さを持って
ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋
バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」
2007・1・17
※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。
◎神への誠実さを持って
【本文】
『ゆえに、君は定められた義務を成し遂げるがよい。行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。
第一、君は行為しなかったら、自分の肉体を維持することさえできないだろう。
行為を至高者への供物としなければ、そのカルマが人をこの世に縛り付けてしまう。
ゆえに、クンティー妃の息子よ! 行為の結果を至高者にささげ、ただひたすらに活動するがよい。 』
(松川)はい。まず、『定められた義務を成し遂げるがよい。行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。』――あの、この辺のね、全体に言えることなんだけど、ここで出てくる「義務」っていう言葉、これは何かっていうことだね。これはすごく説明が難しい。
説明が難しいっていうのは、もともとこのバガヴァッド・ギーターっていうのは、大昔からいろんな人が解説してる。で、それぞれの立場からいろんな解説をしてるね。それだけね、逆に言うと、多種多様な解説が可能な経典です。それぞれの例えば段階とか、それぞれの立場とかによって、いろんな解説が可能になってくる。
で、私も今までの修行とか、勉強とかを土台として、このバガヴァッド・ギーターの解釈っていうかな、感じるところはいろいろあるわけですが、それを皆さんに説明するのは非常に難しいっていうか(笑)。でもそう言ってたら勉強会にならないので、なんとかね、説明したいと思いますが。
『定められた義務を成し遂げるがよい。』――この義務というのは、ちょっと端的な言い方すると、神から与えられた、われわれが解脱に達する為の、今生の使命です。で、それは、大きなことから小さなことまでたくさんある。大きなことっていうのは、例えば、「いや、私はこれから修行一筋に生きて、多くの人が真理に目覚める為だけに人生を捧げます」って考える人がいるかもしれない。それはその人にとってはその思いっていうか、その行動に人生を捧げることが、その使命っていうことだね。
で、小さなことっていうのは、そうじゃなくて、日々生じるいろんなこと。例えばさっきTさんが「お茶を入れなきゃいけない」とか言ってて、そこでCさんが「じゃ、私が録音の用意しようか」と。これはまさに神から与えられた使命だと。つまりもう必然的に自分がそれをやるような感じになる。それはもう、そこで「え! なんでTさんもっと早く用意しないんだ」とかじゃなくて、「あ、これはもう神から与えられた使命だ」と。全力でやるんだね。
まあこれは今、一つのわかりやすい例だったけど――だから逆に言うとね、この部分ていうのは実は非常にわかりにくいんです。だから、私にとって今、神の意思とはいったい何だと。神が私に与えた使命とはいったい何だってことを、日々、小さな事から考え続けること自体が修行になる。
で、慢心とかエゴが強すぎると間違います。でもいつも言うけども、私はやっぱり最も修行において――修行においてっていうよりも、われわれが生きるうえにおいて最も大事なのは、神への誠実さだね。誠実さ。
誠実さがあれば、間違うのはしょうがない。じゃなくて、不誠実にエゴによってわざと間違う、あるいは、エゴによって自分の利益をとってしまうようでは、それはもちろんカルマ・ヨーガにはならない。
言ってることわかるかな? つまりまだわれわれの智慧が十分でない場合、本当に誠実に「いや、これは神の意思だろう」と思ってやっても、もしかするとそれは履き違えるかもしれない。でもそれはしょうがないんだね。で、その場合、私の経験では、間違った場合、神から鉄槌がきます(笑)。つまり間違った場合、ガーンッて、例えば現象がぐじゃぐじゃになったりして、そこで気づきます。「あ、間違いだった」と(笑)。「やっぱりあっちのほうが正しかったんだな」っていうのがわかる。そうやって修正していけばいい。
これを繰り返すと――いいですか? われわれは段々わかってきます。しかし次の問題があります。段々わかってきたが、実行しにくいって段階があります。それはなぜならば、結構、神の意思は厳しいからです(笑)。で、段々ね、正解をとれるようになってくるんです。正解をとれるっていうのは「さあこの現象において私はどうするのが神の意思かな」っていうのを、潜在意識っていうか、深い意識は実はわかってる。答えが。でもそれはエゴが嫌がることだから、避けたがる。で、知らないふりして「こうかな、こうかな」ってやってるんだけど、それでまた失敗すると。で、これを繰り返すうちに、でも「やっぱ神の意思はこれしかない」って追い込まれて、そっちをとると。で、その練習をするうちに、今度は心から喜んで神の意思をとれるようになってきます。それは経験によってわかるんだね。今まで自分はエゴの側についてたけども、そうではなくて、一見苦しそうに見える神の意思をとることが、本当は私にとっては最高の喜びだって気づきはじめるんです。
この喜びに気づいた人は、小さな堕落とかはあっても、本質的に堕落することはない。つまりもうひっぱってもらえるから。
だからちょっと今、言ってることが伝わったかどうかわかんないけども、ここでいう義務っていうのは私はそう感じがするね。
◎カルマ・ヨーガの秘儀
神っていうのは常にわれわれに、行為の使命を投げかけてる。で、われわれはその手のひらの中で放り出されてるんだね。だからわれわれは普段、自分で生きてるような感じがするけど、そうじゃない。完全にもうプログラミングの中で生かされてる。
でももちろん選択肢があるんだね。選択肢の中で「さあどっちをとりますか?」って中に常にわれわれはいる。で、その神の意思っていうのを間違わずに――っていうかね、われわれが無執着に生きていれば、だいたい正しい方をとれます。つまり、自然に生きてたら正しく生きられるんです。でもわれわれはエゴが強すぎるから、強引に違うほうをとってるんだね。それによって、いつも間違う。
その自然に生じる流れ、現象こそが、神が私に与えた最も解脱、あるいは幸福に近づく最短の道なんだね。だからそれを徹底的に無執着で成し遂げる。これがカルマ・ヨーガなんですよと。そうじゃなくて自分の観念によって、一切の行為をしない。これはだめだと。だめだっていうよりもね、さっきカルマの法則の話をしたけど、カルマって結局、過去に何かをなしましたと。まあ過去に何かっていうよりも、もう、ものすごい回数生まれ変わって、われわれはいろんなことをやってきた。で、そのカルマっていうのは当然、今、そして未来において受けなきゃいけないんだね。だからある意味では負債がいっぱいたまってるわけです。で、それはわれわれは、この世においていろいろ経験するっていうかたちで、その清算をしなきゃいけない。
だから、イメージで「いやー、私は全て止まりました」とか言っても、そんなことは不可能なんです。必ずその、カルマの清算の中にわれわれは放り投げられなきゃいけない。
で、もうちょっと深いこと言うと、そのカルマの法則自体も、神の愛であり、神の意思なんです。
つまりこのあいだもヨーガ・スートラで言った話とつながるけども――ちょっとこのへんは比喩的な表現も入れて言うけども、神がわれわれの魂を成長させる為に、カルマの法則という、一つの幻影の中にわれわれを放り込んで、経験をさせてるんです。
まあ、ちょっと身近な例をあげましょう。例えば、プライドの高い弟子がいたとしてね、そのプライドの高い弟子に対して師匠が――じゃ、例えば、Eさんがプライドが高かったとしてね、私がある時期、「Eさんすごいね、すごいね」ってものすごく褒めて、Eさんのプライドをどんどんどんどんどんどん増大させていったとします。そして、ある日の勉強会からいきなり今度はEさんを馬鹿にし出したとします。これは本当にEさんをそうするって意味じゃなくて――これはあり得る話なんです。これはどういうことかっていうと、師匠が弟子のプライドを落とす一つの方法としてそういうのがあります。つまり、「この人ちょっとプライドがあるな」と。でも例えば今のEさんのプライドは、中途半端だと。ないわけでもないが、すごいあるわけでもない。この場合は落ちにくいんです。よって、いったんものすごい増大させてあげて、いい気になってるときにバーッて馬鹿にすると。そうするとすごくグワーッてなる。でも一回じゃ駄目で、また次のときも馬鹿にすると。そうすると「グサッ」てきて、それを何回か続けるうちに、心が学習するんだね。「プライドは苦だ」と(笑)。で、離れるようになる。
で、このプログラムを例えば私が考えたとしますよ。で、Eさんに対してそれをやったとしますよ。で、例えば、一回、二回、三回と褒め、で、次からEさんに皆の前でものすごく馬鹿にするようなことを言ったと。Eさんは傷ついたと。次の勉強会でも、バーッと馬鹿にするようなことを言ったと。また傷ついたと。はい次、三回目において、Eさんは恐れて、勉強会に来なくなったとします。つまり、いろいろ理由をつけてね。「いや、僕は勉強会に行ってるよりも、一人で瞑想するのが好きなんだよね」とか言って――つまり単純に、馬鹿にされたくないから、来なくなったとします。ここにおいて、このプログラムはもう駄目になっちゃうわけだね。つまり、本当はそこで更に馬鹿にされ続けることによって、私が描いたプログラムが完成して、プライドは消えるはずなんです。
だからこれと全く同じことが、神とわれわれの関係においてあるんです。われわれはいったん、神の愛によって、この幻影の世界に放り込まれて、いろんな間違った生き方をさせられたんだね。その後、修行の道に入って、その清算をしていく中で悟っていくんです。でもここで、中途半端にそういうものを嫌った人が、「いや、俺は修行だ」とか言って、そのカルマの清算から逃げて、まるで悟ってるような、単純に全て止めた世界に入ると、駄目なんだね。神が最初にやったプログラムが発動しない。
これがだから、また言い方を変えると、カルマ・ヨーガの秘儀だね。だから全てのカルマの動きさえ、神の愛なんだと。そう思いきれるかどうかです。
だからカルマ・ヨーガって、いつもいうけど、バクティ・ヨーガと、もう密接な関係がある。神に対する、あるいはこの宇宙の、絶対的な存在に対する――まあそれは如来と言ってもいいんだけど、完全な信ね。彼の愛は絶対であって、彼の智慧も絶対であって、私はその意思の中で引っ張られてるんだという強い信がないと、カルマ・ヨーガは成功しない。
だから小賢しい智慧があると駄目なんです。小賢しい智慧っていうのは、ちょっとこう、経典とか読んで、「うん。こうだ、こうだ、こうだ」って考え始めると逆に失敗する。だから本質をとらえるのは難しいヨーガだね。カルマ・ヨーガっていうのはね。
『行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。 』――これを読んで、「あ、そうか。じゃあ俺はいろいろ遊ぼうか」とかね、「仕事した方がいいのかな?」とか。
あのさ、これ実はバガヴァッド・ギーターの日本語訳のやつには、行為っていうとこが仕事ってなってる。仕事でもいいんだけど、仕事って書くと、われわれは一般の職業と勘違いしちゃうから、行為というふうに直したんだけど。いろんな勘違いが生まれると思うね。こういう微妙な表現ていうのは。でも本質をね、感じとって欲しいと思います。
はい、そして、
『行為を至高者への供物としなければ、そのカルマが人をこの世に縛り付けてしまう。
ゆえに、クンティー妃の息子よ! 行為の結果を至高者にささげ、ただひたすらに活動するがよい。』
はい、そしてこの行為をもって、悟りに至る一つの秘儀として、ここに出てきましたが、「行為を至高者への供物とする」と。
つまりどういうことかと言うと、まあ、詳しいものっていうのはまたこれから出てきますが――じゃあこれは出てくるのを待って次にいきましょうね。
-
前の記事
第五章 プラーナーヤーマ -
次の記事
常に本質に心を合わせて