神の意思
◎神の意思
【本文】
『君には定められた義務を行う権利はあるが、その結果についてどうこうする権利はない。
君は何らかの結果を求めて行為してはならず、また何もせぬという怠惰に陥ってもならぬ。』
はい。まあ、日本人っていうのは、私が思うに、プライドが高いと思うね。日本人だけじゃないけどね、もちろん。アメリカ人にしろ、現代の欧米人、もちろん韓国人とかもそうだけど、中国人とかもそうだけど……みんなか(笑)。
もちろん、プライドが高くない民族もいるかもしれないけど。民族的にそういう人はいると思うよ。チベット人とかもそうかもしれないね。チベット人ってさ、私いろいろチベット人の亡命のね――ダライ・ラマもそうだけど、あとチューギャム・トゥルンパとかナムカイ・ノルブとか、いろんな人の亡命の話とか見ると、何て言うかな、自分たちが被害を受けてるとか、いろんなことを傷つけられたってことに、かなり鈍感な人たちなんだね。見てると。なんか書いてあることはすごいことやられてたりするんだけど、みんなで大笑いして歌うたいながら亡命に行くとか(笑)。あれは彼らの、何百年も仏教っていうものをやってきた一つのカルマなのかもしれない。
そういう民族ならいいんだけど、日本人ってやっぱり私、もともとはそうじゃないのかも知れないけど、もともとは謙虚さとかが美徳としてあるのかもしれないけど、現代の日本人ていうのはプライドが高いと思う。だからこういう教えっていうのも、ストレートに受け取れないのかなっていう感じがする。
つまり「君には定められた義務を行う権利はあるが、その結果についてどうこうする権利はない」と。神の意思に基づいてバーンと定めらた使命があると。それはやらなければいけないと。しかし神の意思にもとづいてやりましたが、不幸になりましたよと。どうしてくれるんですか?――なんてことを言う権利はないと(笑)、ズバッと言っている。
あの、日本人ていうのはもともと、謙虚だったと思うんですよ。私、昔、10年ぐらい前に友達とかと話してて、「いや、アメリカってちょっとおかしいよね」っていう話をした覚えがあって――それはつまり、なんでもかんでも裁判に持ち込むと。いろいろ有名なのがあるよね。たとえば猫をレンジに入れてチンしたら死んじゃったと。猫を入れてはいけないって書いてなかったメーカーの悪口言って訴えたっていう裁判があって。もうほんのちょっとしたことで、自分の被害を声高に叫ぶと。
日本人ていうのはもともとは、そこで自分を主張しないことの美徳っていうのがあったような気がするんだけど。私のイメージでは。でも最近はもう、そんなことはなくなってきた(笑)。何でもかんでも被害を叫ぶっていうか。
でもここは、昔の日本人とかインド人とかチベット人が持っていたような発想があるんだね。これはだから、卑屈さじゃないんです。こういうの読んで、これは納得できないとか、ちょっと卑屈な感じになる人っていうのは、多分相当プライドが高い。そうじゃなくて、何度も言うけども、神の意思はもう神の意思なんです。それは、結果を求めているわけじゃないんです。
つまり、「神の意思を実践すれば幸福になるんですね。わかりました、やりましょう。」じゃないんです。
◎利己的知性を超えて
だから関係ないんだね、どうなろうが。ちょうど仏教でいうと密教的なナーローパの話とかにすごく近い。
ナーローパはティローパについて、最後は悟るわけだけど、途中まではわけのわからないことをやられるわけです。ティローパの言うことを聞けば悟ると思ってたら、高いところから飛び降ろされたりとか、火で大やけどを負わされたりとか(笑)、わけのわからないことが続くんだけど、ナーローパはすべて喜んでやる。それは、彼の場合は師匠を仏陀と見て、それにたいする帰依があった。自分が仏陀や神に対して純粋に身を捧げることそのものが喜びなんだね、このバクティ・ヨーガとかカルマ・ヨーガの世界っていうのは。
だからそこで自分の観念によって――だからそこでね、例えば「こんな不幸な目に遭いましたよ」――これも観念なんです。自分では不幸だと思ってるけど、それは神の目から見たら、最高の幸福への道かもしれない――かもしれないっていうか、そうなんだけど。
人間が例えば病気の犬を見つけてね、「ああ、これはちょっと手術しなければいけない」と思って、治してあげようとして捕まえて、手足を縛って傷口を切りだしたとするよ。犬からみたらどう思いますか? 「あ、この人優しそうだ」と思ってついていったら、手足を縛られて(笑)、痛みを与えられたと。「何てことするんだ! 俺はこいつが優しいと思ってついていったのに! 騙された!」ってなるけど、結果的には救っているわけです、人間が。それが神と人間の関係においても言えるんだね。
人間は神より知性が低いから、最終的にわれわれを最高の悟りに導こうとする神の仕掛けがわからない。だから最初、よく宗教であるのは、神がわれわれを本当に幸福にするための試練を与えたときに、神に文句を言い出すわけだね。神なんてないと。神なんて信じないと。いや、これは神の意思は苦しいからそっちの方向には私は行きませんと。――だからこれが、さっきから言っている人間の利己的知性だね。
人間は動物よりも知性が高い。現象面っていうか現実面は正確に分析して、やる能力はある。しかしもうちょっと上の、この世を覆っている全体的なカルマの真理とか、あるいはそれを超えた真理に対しては全く知性がないわけだね、人間っていうのは。
人間って本当にすべて分かったような気になってるけど、特に日本人とか先進国の人たちってそういうところがあるけども、本当は何も分かってない。「なぜ生まれて、死ぬか」さえ分かってない。そんな重要なことさえ分かってないのに、なんかすべて分かったような気になってるという(笑)、人間のおろかさがあるね。だからその辺を全部任せなきゃいけない。これもだから、厳しいところですね。現代的には。
◎エゴのない活動
はい、では最後に「また何もせぬという怠惰に陥ってもならぬ。」とありますが、これも一つの――釘をさしているわけだね。これもいつも言うように、間違ったバクティ・ヨーガの発想でそういう人がいます、たまに。「神の意思に任せるか」と。「俺は何もしたくないよ」と。
それは違うんだと。そうじゃなくて――まずね、第一として全力で人生を生きなきゃいけないんです。どっちにしろ。もう全力でやることやらなきゃいけない。で、何をやるべきかわからないときは、本当にそれを探さなきゃいけない。っていうよりもね、何をやるかわからないって人は、無難に、ヨーガ修行してればいいです(笑)。解脱の道を進めば無難です。でも解脱の道も、ちょっとまだそこまで私は心が成熟してないっていう人は、もちろんその人の――例えばその人が何か夢があるんだったら、その夢を追いかけるでもいいし。そうじゃないのかもしれない。
例えば、また例として出すと、Yさんが、本当にインストラクターになりたいんだろうかと。なりたいのかもしれない。だったらそれを全力でやればいい。もしかするとやっているうちに、違ったなって気づくかもしれない。そうしたらそれはまたその気づいた道を進めばいい。だから神の意思に任せるというのは、怠惰にただ日々ぼーっとして何もしないで生きるということとは全然違うんだね。
これはヴィヴェーカーナンダとかはまさに、そういうところを強調してるんだね。ラーマクリシュナっていうのはすごくバクティ・ヨーガを説いて、もちろんラーマクリシュナの教えっていうのは素晴らしかったんだけど、ラーマクリシュナが死んだ後、多くの人がそれを錯覚し出した。単純に神の意思、神の意思とか言って、日々ただ祈ってぼーっとガンジス河で過ごしてればいいのかなって人が多くなったから、ヴィヴェーカーナンダはそれに対してズバッと「違う」と。「行動せよ」と言ったんだね。
ヴィヴェーカーナンダ自体が、すごく行動的な人だったんだけど――徹底的に行動しろと。つまり君の人生のやるべきことを全力でね、本当にもう生命が尽きるまで、体がぼろぼろになるまでやり抜けと。そういう発想があるんだね。
ヒンドゥー教っていうのは一見――仏教もそうだけど、なんかこう、エゴがないから、エゴは捨ててるから――欧米人っていうのは、エゴをすごく大事にする。以前、インドに行ったときに、インドの喫茶店でTさんと一緒に、壁に貼ってあるヨーロッパの人が作ったポスターがあって、それを見てたら「何々が大事だ」とバーッて書いてある。例えば愛が大事だとか、智慧を求めることが大事とか、バーッて書いてあって、「ああ、いい言葉だな」ってずっと見てたら、一番最後に、ちょっと英文は忘れたけど「しかし、もっとも大事なのはIだ」と。IっていうのはアイアムのIね。つまり「私」っていうのが一番大事だと最後に書いてあって、「ええー?」ってずっこけたんだけど(笑)。いかにもヨーロッパ人、欧米人の発想だなっていうか。つまり自己主張の自我こそが、一番大事なんだって発想するわけだけど。でも東洋の宗教っていうのは、自我を滅するってことに主眼を置くから、欧米からするとちょっとこう、行動性のない教えに見える。止まっている教えに見えるっていうか。決してそうじゃないんだと。エゴのない活動なんです。エゴを滅した激しい行動をせよっていう教えなんです(笑)。そこら辺がとても理解が難しいところです。この辺が真髄的ではあるんだけど、ちょっと説明が、最初から言っているように、難しいところだね。
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