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瞑想の障害とたとえ話と対抗策

 瞑想の障害となる五つの項目。それは、
①愛欲
②憎しみ
③不精と眠気
④浮ついた心と悔やむ気持ち
⑤疑い

 この五つについて、原始仏典でお釈迦様は、借金・病気・監獄・奴隷・荒野の道という五つの例えを繰り返し出しています。
 この五つの例えが五つの障害のそれぞれに当てはまるとは書いてありませんが、私は当てはまると考えています。そこでそれらの例えにもとづいて、この五つの障害を検討してみましょう。

①愛欲--借金

 性欲、食欲、お金、その他への飽くなき執着・貪り。これらは借金のようなものです。
 何故借金なのでしょうか? それらの欲望を満たしたその瞬間は、楽しいからです。満足するからです。
 しかしふと気づくと、多額の借金が残されるように--ふと気づくと、我々の執着の苦悩は増してしまっているからです。
 清貧の賢者も、ちょっと物を集め始めたのをきっかけに、いつ守銭奴になるかわかりません。
 純粋な恋心も、そのうち独占欲が強くなり、嫉妬や寂しさなどの苦しみにさいなまれます。
 執着の修習はそれと引き換えに、大きな苦しみの種を心に植えつけるのです。これが借金です。
 
 では借金の返済とは何でしょうか?--愛欲・執着から離れること、すなわち離欲の修行です。
 心において貪り・愛欲・執着をどんどん捨て去り、浄化していくのです。
 ところで、借金が多いほど、返済は大変でしょう。
 同様に、執着の経験が多いほど、それを捨て去るのは大変になります。
 しかし有限には変わりありませんから、必ずいつかは浄化されるでしょう。
 
 実際の瞑想においては、愛欲や執着の思いがあると、当然、瞑想はできません。なぜならその執着の対象は皆、この欲の世界のものですからね。瞑想においては色界や無色界といった、欲を超えた世界に入っていかなければならないわけですから、心が欲界に縛り付けられていては、無理なのです。
 しかし、ということは、仏陀とか、神とか、この欲界を超えたものへの執着は、瞑想においてはある程度肯定されるということになりますね。その通りです。そしてその部分を強調しているのが、バクティ・ヨーガや、大乗仏教や密教で強調される帰依の修行ということになります。 

②憎しみ・怒り--病気

 怒っている人の吐く息はねずみを殺すほどの毒素を持つという実験結果を聞いたことがあります。まあこの実験の信憑性は別にしても、怒りは肉体的にも、精神的にも、大きな病を自分自身にもたらします。
 怒りによって体の気道はつまり、炎症性の病が起きやすくなります。神経や内臓は不調になり、呼吸は浅くなり、頭脳や身体中に酸素やプラーナは行き渡りにくくなるでしょう。
 精神的な問題はもっと深刻です。執着の苦しみも苦しいですが、怒りの苦しみはもっと最悪です。それは地獄の因でもあります。 
 考えてみてください。怒りの心が作る世界、イメージは、殺伐とした、どろどろした、息苦しい、闇に満ちたものでしょう。しかしそれは、誰かに対してその怒りや憎しみを向けていたとしても、実際にその怒りや憎しみの心が展開されているのは、自分の心なのです。その人は自分の心を暗く殺伐にしているだけです。そしてその心の状態によって、人は世界を見ます。その人にとっては、この世界は暗く、殺伐として見えるでしょう。
 それは実際、様々な精神的問題を生み出し、精神的に孤立感も強くなるでしょう。自分の気に入らないものを排除し、逃げ、憎み、攻撃することを繰り返すことで、その人はこの宇宙で一人ぼっちとなり、どこに行っても苦しみを感じるようになるでしょう。そう、その人はたとえ天界に行ったとしても、苦しみを感じるでしょう。逆に慈愛に満ちた人は、たとえ地獄に行ったとしても、苦しむことはないでしょう。周りの衆生への哀れみはあったとしても。--なぜなら、すべては心だからです。
 だから、憎しみや怒りに覆われているということは、まさに病にかかって苦しんでいる人と同じなんですね。

 実際の瞑想においては、もちろん、怒りや憎しみがあると、瞑想できません。その憎しみの対象が心にわいてくるというだけではなく、肉体的にも悪いプラーナに満たされた悪い状態になっていますし、精神的にも暗く殺伐とした状態なので、光や徳に満ちた色界や無色界には、とても入れないのです。
 そしてこの場合の対抗策は当然、慈愛を初めとした四無量心の心や、菩提心を培うことですね。トンレンの瞑想も有効ですし、「入菩提行論」のような経典を読むことも有効でしょうね。

③不精と眠気--監獄

 不精、怠惰さ、眠気--これらに覆われるというのは、無智のカルマですね。
 つまり、人は自分から、「よし、俺は不精になろう」とか、「よし、眠気に襲われよう」などと考えるわけではなく、過去の無智のカルマにより、あるいはヨーガ的にいえばタマスのエネルギーにより、怠惰さや眠気という監獄につながれてしまうわけです。そこはまさに暗く、動くことのできない監獄です。
 この状態でももちろん瞑想はできません。瞑想のために背筋を伸ばして座法を組むことも出来ません。心はぼーっとし、修行に向かわず、あるいは抗しがたい眠気により、集中できません。
 瞑想とは明晰な意識による精神集中ですので、この怠惰さと眠気という監獄に閉じ込められている間は、瞑想できないのです。
 これらに対しては、心を奮い立たせる教えを学んだり思索したり、あるいは経行や呼吸法その他の肉体行で体をリフレッシュさせることも必要ですね。

④浮ついた心と悔やむ気持ち--奴隷

 奴隷というのは自由がなく、常に支配され、縛られています。
 この四番目の障害というのは、簡単にいうと、過去という妄想と、未来という妄想に縛られた心、といっていいのではないかと思います。
 つまり未来のことに心奪われ、心浮つき、興奮し、うきうきしたり、逆に恐怖したりする状態。
 そして過去というすでに終わったことに心うばわれ、常に後悔したり、逆に良かった思い出を浮ついて考える状態。
 つまりこの人は、「今」という最高に新鮮ですばらしい瞬間を、自由に楽しむことがないのです。
 もう腐っている過去という思い出と、未だ未成熟な未来という妄想に、常に縛られ、自由がないのです。
 
 この状態でも、瞑想できません。なぜなら瞑想とは、この今の瞬間に心を合わせなければならないからです。
 
 これに対する対抗策はケースバイケースですが、大雑把に言いますと、まず懺悔の修行によって過去のカルマの整理と清算を行なうといいでしょうね。
 バガヴァッド・ギーターなどを読んで、カルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガの実践に励むのも良いでしょう。
 また、過去と未来、期待と恐怖などに関する考察は、ここの日記でもいろいろ書いてきましたので、それらも参考にしてみてください。
 あるいは、整理されない情報の入れすぎがこれらの障害を生み出す場合もあります。この場合、あまり本やテレビなどを見すぎず、正しい教えの学習と思索によって心の整理をする必要もありますね。

 これらの実践により過去と未来から解放されるなら、今という新鮮な輝く世界が、瞑想者に現前するでしょう。 

⑤疑い--荒野の道

 疑いとは、真理への疑いです。
 逆に言えば、我々は何かを信じなければいけないということです。
 というより、我々は常に何かを信じているのです。
 宗教とか無宗教とかは関係ありません。
 小さいころから教えられた様々な概念、世界観を無意識のうちに--というより確信が強すぎて信じているということさえ気づかないほど信じているのが、普通の人間です。
 しかしそれらは実際は真実ではない、そして我々を悪趣へと落としかねない観念も多く混じっています。
 真理の教えとは、それらのなかにあって、我々を安全に、幸福、安らぎ、天界、そして解脱・悟りへと導いてくれる、すばらしい観念です。
 その真理の観念をよりどころとするなら、我々は安心してこの人生を渡っていけるでしょう。
 しかしそれらの真理の観念に疑いを抱くなら、我々は危険な荒野に裸で放りだされたようなものです。多くの危険と恐怖と頼りなさが付きまとうでしょう。

 ところでしかし実際に悟りを得るときには、我々は別の意味で、この荒野に裸で放り出されなければならないと私は思います。
 なぜなら、悟りのためには、真理という観念も最後には捨てなければならないからです。
 ここにおいて、なれないと非常な恐怖があります。しかしこれは必要な経験です。
 しかしこの最後のステップに至るまでは、真理という観念が必要なのです。真理という観念への強い確信が必要なのです。

 実際に瞑想するとき、実際に自分が行なっている修行への信、それを指導してくれた師への信、そしてその根本にある仏陀や聖者やその教えへの信--これらがないと、我々の心は集中されず、効果的に瞑想に入ることはできません。

 ヨーガの経典にもこうあります。

 --ヨーガ修行を成功させる第一の条件は、「我がヨーガ修行は必ず実を結ぶであろう」という確信である。

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