瞑想について
瞑想には、形のある瞑想と形のない瞑想があります。
形のある瞑想とは、たとえばマントラを唱えたり、あるいは神に変化するなどのイメージを使ったり、あるいはエネルギーを意識的に操作したりするものですね。
形のない瞑想は、形のある瞑想がある程度進んでくると、自然に生じます。それは自然に生じるので、努力は要りません。しかしそこに至るまでの努力はいるわけですが(笑)。
形のない瞑想にしっかり入れるときは、まず体が固定されます。そして心も固定されます。これは広い意味での三昧といっていいでしょう。そしてガシッという感じで入っていきます。ガシッというのはちょうどいい表現がなかったのでそう書いてみましたが(笑)、とにかく自動的に入っていく感じです。
そしてこれは無ではありません。明るく、透明で、生き生きとしています。
心のざわつきや、体の不快感もありません。ある種の快楽と、光と、そして心の停止状態があります。心の停止といっても、繰り返しますが、無ではありません。
よく瞑想といって試みられるのは、この形のない瞑想が多いようです。つまり何も考えない瞑想にいきなり入ろうとする人が多いようですが、それは不可能です。無理やり無思考になろうとしても成功しません。「無思考というイメージ」に浸っている人が多いようですが、それはあまり利益になりません。
エネルギーの充実とか、精神の統一とか、心の整理とか、神の祝福とか、いろいろな要素があるわけですが、それらの一つ、もしくは複数の力によって、実際にその準備が整わないと、形のない瞑想は成功しません。
たとえばラージャ・ヨーガのやり方では、一点集中の力があるレベルを超えると、集中の対象が拡大を始め、しまいには拡大しきった対象に自分が包まれるような感じで三昧に入っていきます。
しかしそれには、戒律の実践から始まる準備修行で、強力な精神集中力を養わなければなりません。
ジュニャーナ・ヨーガの場合は、深い意識での論理的思索と納得が繰り返されると、自動的に三昧の扉が開かれます。
しかしそれには現世的観念の除去と、ある意味での直感的真理の理解が必要です。
バクティ・ヨーガの場合は、神への純粋な愛--それはそういう「フリ」をするのではなく、本当に純粋な愛が高まることで、体と心が固定され、歓喜と寂静のうちに三昧に引き込まれます。
しかしそのためには愛欲や物質欲などを放棄し、神のみを求める純粋な希求心が不可欠です。
クンダリニー・ヨーガの場合は、エネルギーが正しい道に入り、浄化され、強化されていくと、体と心がどんどん軽くなり、快感状態が増し、体が浮いているというか肉体の感覚が全く感じられないような状態になります。そしてさらにエネルギーが強まると、そのエネルギーに包まれるような感じで三昧に入っていきます。
しかしそれにはもちろん、気道の浄化およびエネルギーの覚醒と浄化と強化、そしてスシュムナーや中央管への気の流入などが必要です。
このような土台によって実質的な瞑想を進め、真に形のない瞑想の状態に入ると、外界の物音は聞こえないか、聞こえても全く気になりません。ある種の安定感があります。気が散るとか、体がだるいとか、そんなこと自体がありえません。
しかし繰り返しますが、いきなりその状態に入るのは無理なので、そこに至るさまざまなテクニックというか基礎の積み重ねが必要なわけですね。
形のない瞑想に入ったら、そのまま何もしない場合もありますが、より深く深くへと突入したり、しっかりと観察をして、心の仕組みをより深く理解したり、といったことをしたりもします。そうして知識や論理を超えた、真の意味での悟りを深めていきます。
ですからまずはそのような真の瞑想状態が生じるように、形のある瞑想と、さらにその基礎であるさまざまな修行、および戒律を守るなどの日々の実践から固めていく必要があるでしょう。
では、まあ行法や瞑想にはさまざまなテクニックがあるとして、精神面でも最も重要な土台とは何でしょうか。それは私は、慈悲と帰依だと思いますね。
つまり衆生に対する慈悲、そして菩提心。
そしてもう一つは、神や師に対する完全な信、帰依の心。
この二つが、形のない瞑想の深さと広さを決めていくように思います。
つまりバクティ・ヨーガ、そして大乗の実践が大事だということですね。