真のおまかせ
アメリカ人の男性と女性
偏狭なキリスト教徒からの攻撃
真のおまかせ
ナーグ・マハーシャヤ
【場所:ベルル、僧院の前身となる借り家のマト 年:一八九八年二月】
スワミジは、アランバザールからベルルのニランバル・バーブの邸宅にマトを移転した。彼は、新しい場所に移転できたことをとても喜んでいた。彼は弟子が来たときに言った。
「どうだ。ガンジス川が横を流れ、なんと美しい建物だろう! 私はこの場所が好きだ。ここは、マトにはうってつけの場所だ。」
そして、午後になった。夕方、弟子は、スワミジが一人で二階にいるのを見かけた。弟子は、彼が知りたかったスワミジの少年時代の生い立ちについて様々な質問をした。スワミジは話し始めた。
「私は、小さいときからやんちゃ坊主だった。そうでなければ、無一文で世界中を旅して回ることができたと思うか?」
スワミジは、少年時代、ラーマーヤナの吟遊詩人の朗誦を聞くことがとてもお好きだった。こうした朗誦が近所で催されると、遊びを途中で切り上げて参加したものだった。スワミジはある日、ラーマーヤナをを聞きながら、それに夢中になって家のことはすっかり頭から消えてしまい、夜遅くなっても家に帰るのを忘れていた、という話をされた。また、ある日の朗誦のとき、バナナ果樹園に猿の神様ハヌマーンが住んでいると聞いた。彼はこれを信じ、朗誦が終わるや否や、ハヌマーンを一目見ようと、夜遅くまで、家の近くのバナナ果樹園を歩き回った。
学生時代、昼間はひたすら友達と遊び回り、夜は部屋に鍵をかけて勉強して過ごした。よって、いつ彼が授業の予習をしているのか、だれも見当が付かなかった。
弟子が質問した。
「師よ、学生時代に何かヴィジョンを見たことはありますか?」
スワミジ「学生時代のある晩、ドアを閉めた部屋の中で瞑想をしていた。精神は深く集中していた。このような状態で、どれだけの間瞑想をしていたか自分でも分からない。瞑想が終わった後、そのまま座っていると、南側の壁から光り輝く姿が現われ、自分の前に立ち止まった。その顔は、光り輝いていたが、感情の動きは見られなかった。それはサンニャーシンの姿をしており、完全に静寂を保ち、髪は剃られ、杖とカマンダル(サンニャーシンが持っている水を入れる木製の器)を持っていた。私のことをしばらく見つめ、あたかも私に話しかけようとしているかのようだった。私も言葉にできない不思議な気持ちを抱きつつ、彼を見つめていた。そのとき、ある種の恐ろしい感じがしたので、ドアを開け、急いで部屋を出た。その後、こうして逃げ出したことは愚かだったと、そして、恐らく、彼は私に何か言っただろうに、と後悔した。しかしそれっきり、その姿を見たことはない。よく、ことある度に、再び彼に会うことができたら、もう恐れることなく話しかけるだろうと思うのだがね。けれども、それ以来彼に会うことはなかった。」
弟子「あとで、それがどういうことだったのか考えたことがありますか?」
スワミジ「ある。しかし、この謎を解く糸口は見つからなかった。今考えれば、私が見た姿は主ブッダだったと思う。」
少し沈黙した後、スワミジは言った。
「心が純粋で、欲や金に執着していないときには、すばらしい幻想を時々見るものだ! しかし、それらに気を取られてはならない。いつもそのようなことに気を取られてばかりいると、さらなる向上は見込めない。シュリー・ラーマクリシュナがいつも言っていたことを聞いたことはないか。
『最愛の主の聖なるお住まいの外庭には、無数の宝石が放置されたままになっている。』
このような物珍しいことに気を取られていて、何になる? 真我と直接対面しなければならないのだ。」
以上の言葉の後、スワミジは、何事かを深く考えてしばらく黙って座っていた。それから、再び話し始めた。
「そういえば、アメリカに滞在中、あるすばらしい能力が身についてきた。相手の目を見るとすぐに、その人の考えていることが分かってしまうのだ。全ての人の心の動きが、手に取るようにはっきりと認識できた。相手によっては私の心に見えたことをそのまま伝えた。その中には後に私の弟子になった者が何人もいる。しかし何らかの下心を持って近づいた者たちは、私にそのような能力があることを知ると、二度と顔を見せようとはしなかった。
シカゴやその他の都市で講演を始めたばかりのとき、毎週、十二から十五回、ときにはそれ以上の講演をしなければならなかった。こうした無理な活動によって、心身共に相当疲れていた。講演の内容が不足がちになり、翌日の講演で話さなければならない新しい話題を探すのに困っていたことがあった。新たな考えがほとんど浮かんでこない感じがした。ある講演の後、横になって次回はどうしようかと考えていた。半ば眠ったような状態のときに、誰かが私の隣に立って、今までの人生で聞いたことも考えたこともないような新しい考えや話を講義するのが聞こえてきた。目が覚めてからその内容を思い出し、講演で同じ話をした。この現象は、自分でも数え切れないほど体験している。ベッドに横になりながらも、何日も何日もこの講義を聞いた。時折、その講義の声がとても大きかったため、隣の部屋に住んでいる人がその声を聞いて、『スワミジ、昨晩、あんなに大声で誰と話していたのですか』と翌朝問われることもあったが、なんとかうまく切り抜けたものだ。それにしても、不思議な出来事だった。」
弟子は、スワミジの言葉に驚嘆し、この出来事をよく考えてから言った。
「師よ、きっとそのときには、あなたの精妙な体が講義をしていたに違いありません。そして、時々、それが粗雑体にも共鳴していたのではないかと思います。」
スワミジはこれを聞いて答えた。
「まあ、そうだろうな。」
アメリカでの経験が話題になった。スワミジが言った。
「あの国では、男性より女性の方が十分な教育を受けている。女性たちは皆、科学や哲学を良く分かっているので、私のことを正しく理解し、これほどまでに賞賛してくれるのだ。男性は、一日中働いているので、ほとんど時間に余裕がないが、女性は、学校や大学で学んだり教えたりしているので、学識が身に付いている。アメリカでは、右を見ても左を見ても女性の力と影響力が目に止まる。」
弟子「しかし、師よ、頑固なキリスト教徒は、師に抵抗したのではありませんか?」
スワミジ「その通りだ。人々が私を賞賛し始めると、牧師たちは私をおとしめようとした。牧師たちは新聞に私の悪口を書いた。多くの人が、これらの悪口に反論するように勧めたが、私は全く気にしなかった。この世界では、次元の低い小手先の活動では、大きな仕事を成し遂げられないということが、私の確固とした信念だったので、下品な悪口には目もくれず、着実に自分の仕事に取り組んだのだ。いつも最後になって分かることは、私の悪口をよく書いた人は、結局は後悔して、悪口を書いたことを反省したという記事を新聞に書くことになり、降参して謝ることになるのだ。私がある家に招待されたと知ったある人が、その家の主人に、新聞に出ていた私の悪口を告げた。それを聞いて主人は家に錠をかけて外出してしまったということもあった。招待された場所に出掛けたが、そこは閑散としていて、誰もいなかった。それから数日後、彼らは自分たちで本当のことを理解し、以前にとった行動を反省して、弟子になりたいと言ってきた。
息子よ、この世界は、馬鹿げた世俗の活動であふれている。道徳心の強さと判断力が身に付いている者は、こうしたことには決して惑わされない。世間には好きなように言わせておけ。私は自分の果たすべき仕事を果たしていく。それが勇者のとるべき行動だと確信しているからな。この世では、昼も夜も人の言ったことや書いたことに付き合わされていると、大した仕事はできないものだ。このサンスクリット語の格言を知っているか?
『道徳律に熟達した者が褒めようとけなそうと、幸運の女神ラクシュミーが気ままに訪れようと去ろうと、死期が今日であろうと一世紀後であろうと、賢者は、正しい道を踏み外さない。』
世間の人々からほめられたりけなされたりしようとも、運が向いていてきたときも、つきに見放されたときも、体が滅びる日が今日であろうと、次のユガであろうと、真実の道から外れてはならない。人が平安という天国に至るまでに、どれほどの暴風雨や高波に直面しなければならないことか。偉大な人ほど厳しい試練を乗り越えなければならないものだ。彼らの生き様は、現実の人生によってその真価が問われることになり、そのとき初めて、世界がその偉大さを認めるようになるのだ。心弱く臆病な者たちは、大海の立ち上がるさまにおじけづいて、海岸の近くで声も出なくなる。本当の英雄は、そんな波など全く気にとめない。何があろうと、私はまず自分の理想に到達するのだ! これがプルシャカーラの、つまり男らしい生き方である。このような男らしい生き方がなければ、いかに神からの助けがあろうと、おまえのタマスが消え去ることはないだろう。」
弟子「それでは、神に頼り、神におまかせすることは、弱さの現われなのでしょうか?」
スワミジ「シャーストラでは、心の底から自己を神に差し出し、神に頼ることが、人間が到達すべき究極的な目標とされている。しかし、最近、お前の国で人々がデーヴァ、つまり神へのおまかせということについて語るのを聞くと、彼らが、ある意味で死んだも同然だと分かる。それはどうしようもない臆病心に起因している。その臆病心のために、神に関するとてつもない考えをつくり上げ、自分の欠点や至らなさの責任をそれに負わせようとしているのだ。シュリー・ラーマクリシュナの『牛を殺した責任』についての話を聞いたことはないか? 最終的に、庭の所有者が牛を殺した責任を負うことになった。最近は誰もが、『私は主に指示されるままに行動している』と言う。したがって、自分の罪と功績の責任は神にあるというのだ。まるで自分が水に浮く蓮の葉であるかのようにな。みなが常に心の底からこうした雰囲気の中で生活するのであれば、その人の魂は自由である。しかし、賞賛すべきなのは神であるにもかかわらず、現実は、『良いこと』は自分の手柄とし、『悪いこと』は神に責任を押しつけているではないか! 叡智と神の愛に満たされた段階に到達していなければ、絶対に『神におまかせする』という状態にはならない。本当に心の底から神に頼っている人は、もはや、物事を良いことと悪いことの二つに分けて考えない。現在、われわれの周りで、この状態に達している良い例は、ナーグ・マハーシャヤだ。」
その後、会話は、ナーグ・マハーシャヤのことに移っていった。スワミジは言った。
「バクタの中で彼の右に出る者はいない。次はいつ彼にお目にかかれるだろうか!」
弟子「あなたにお会いするために、近々、カルカッタに来るそうですよ。お母さん(ナーグ・マハーシャヤの妻)が私に宛てた手紙にそう書いてありました。」
スワミジ「シュリー・ラーマクリシュナはよく、彼とジャナカ王を比べていた。これほどまで、すべての感覚を一つに集中している人は聞いたことがないし、ましてや会ったことはない。おまえはできる限り、彼と一緒に過ごすべきだ。彼は、シュリー・ラーマクリシュナに最も近い弟子の一人なのだ。」
弟子「私の地方では、多くの人が、彼は向こう見ずな人だと評価しています。しかし私は彼に初めてお会いした頃から、偉大な魂だと思っていました。彼は、私のことをとても可愛がってくれますので、私は多大な恩恵を受けています。」
スワミジ「こんなに偉大な魂に会うことができるのだから、おまえはもう、何も心配することはないのではないか。おまえは何生にもわたって行なったタパシャー(苦行)のおかげで、このような偉大な魂と一緒にいるという恩恵を受けたのだ。彼は家では、どのような暮らしをしているのかね?」
弟子「師よ、彼は、仕事のようなことは一切していません。いつも家に来るお客さんのもてなしで忙しくしています。パール・バーブが多少お金を彼に提供していますが、そのほかには彼が資金を稼ぐ方法はありません。一方、支出は裕福な家庭のようです。しかし一切、自分のためにお金を使うことはなく、全ては人々へのもてなしのために使っています。他者へのもてなし――彼の人生において、これこそが最大の使命であるかのようです。彼は、全ての生き物の中に真我が存在することを理解しているので、世界全体が自己の一部であるかのようにもてなすことに集中しているのだという印象を受けました。他者をもてなしているときは、絶え間なく働き、自分の体の意識さえありません。師が言われた、精神の意識を超越した状態の中で、彼はいつも活動しているのではないかと思うのです。」
スワミジ「それに疑う余地があるだろうか。彼は、どれほど深くシュリー・ラーマクリシュナを慕っていたことか! おまえの出身地である東ベンガルでは、シュリー・ラーマクリシュナの神聖な友人として、ナーグ・マハーシャヤが誕生したのだ。東ベンガルは、彼の栄光によって光輝いている。」
(「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より)