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百億分の一によって」

【本文】

 また、肉体はかように不浄であるにも関わらず、資金なしには得られない。そのために人は資金獲得の苦労をし、さらに地獄等で苦難を受ける。

 子供は資金を得る力がない。青年においては、何を楽しむのであろうか(楽しむ金がない)。壮年は資金を得るためにむなしく過ぎていき、老人は愛欲に何の用があろう。

 ある者は下劣な欲望に駆られ、日暮れまで活動して疲れ果てながら、家に帰って、死せるもののように床に横たわる。

 ある者は長旅(商用の旅、または討征軍)に加わって、他国にとどまるという苦しみをなめ、妻子のために働きながら、それらと数年間もまみえない。

 愛欲にくらまされて、いわばそのために自我を売り渡した目的物は、彼らに得られない。しかるに、彼らの寿命は、他のために働くことによってむなしく過ぎ去る。

 他の者は自我を人に売り渡し、常に使いのために駆使せられ、その妻は森のこずえの下などで子を産む。

 ある者は、生きるために、生命を保てるかどうかも疑わしいのに、戦争に突入する。
 また、名誉を得ようとして、かえって奴隷とせられる。
 愛欲にくらまされた愚か者達よ。

 ある他の者は、欲望を追求したために切られ、また串刺しにされ、火に焼かれ、槍で殺されるのが見られる。

 それを手に入れること(の苦労)、守ること(の苦労)、なくなった場合の失望があるのだから、(現世)の利益は無限の不利益であると知るべきである。財に心を奪われた者は、そのわずらいのために、生存の苦しみを免れる機会がない。

 かように欲望を追求する者の苦難は多く、欲望を楽しみ味わうことはわずかである。それはあたかも、(重い)車をひく家畜が、ただわずかの食物を得るがごとくである。

【解説】

 ここもしっかりと皆さんで思索してほしいですね。現代日本ではまた別のさまざまの事例が検討できるでしょうから。
 そして結局、この一連の文章が一番言いたかったのは、この最後の一文ですね。「欲望を追求する者の苦難は多く、欲望を楽しみ味わうことはわずかである」ということです。それはリアルに検討すればそのとおりなんですね。それを一生懸命ごまかして、自分は欲望によってとても幸福になっているような錯覚がある人もいますが、リアルに検討してみると、上記にあげられたように、欲望の果報自体を味わう時間や量というのは非常に短く、それを得るまでの苦労、それを守る苦労と恐怖、失ったときの苦しみ、そしてその他、付随するさまざまな苦しみ・・・などをトータルで観察すると、欲望を追いかける人生は、苦しみまみれじゃないかと、なぜそんな人生を歩むのかと、智者・賢者から見ると見えるわけですね。
 そしてそのような生き方を、家畜にたとえています。一日中、こき使われて、草とか残り物とかのわずかな食物しか与えられない、牛とか馬とかのイメージですね。
 そういえば昨年、インドのラージギルに行ったとき、そこは街中をリキシャーさえも走っていない田舎で、遠出するには馬車で行くしかないので馬車に乗ったのですが、その馬がなんだかすごく辛そうで、しかも運転手が、全く情のかけらもなく、馬を鞭で打ってこき使うんですね。そして与えるえさも、本当に、あまり質の良くなさそうな草だけで。これはまさにこのたとえ話のイメージにぴったりの光景でしたね。
 マーラ(煩悩によって輪廻を支配する魔王)の家畜であるわれわれは、欲望によって得られるわずかな楽しみというえさを求め、その何倍もの多くの苦しみを耐えるのです。このような不当な家畜の立場から、脱却したいと思いませんか?

【本文】

 家畜さえも得るにやさしいわずかの楽しみのために、悪しき運命(過去の悪業)にくらまされた者は、この得がたい恵まれた人生をむなしく浪費する。
 
 その苦労の百億分の一によって、仏陀となることができる。欲望を追求する者の苦しみは、菩提行の苦しみよりもはるかに大きい。しかも彼ら(欲望を追求する者)は覚醒を得ない。

【解説】

 さあ、ここで、ものすごいことが明かされていますね。
 過去の悪しきカルマに翻弄された者は、この貴重な人生を無駄にし、欲望のわずかな楽しみを得るために、多くの苦しみに人生を浪費します。
 しかしその、欲望を追求するときに生じる苦労の、たった百億分の一の苦労によって、仏陀になることができるというのです!
 菩薩として生き、修行し、仏陀を目指す道--それが菩提行ですが、この道は、とても苦しく、激しく、つらいイメージがあるかもしれません。もちろん、修行における苦しみ、苦労というのは実際に多々あるわけですが、そんなものは、欲望を追いかける者たちの苦しみに比べたら、比較にならないほどわずかな苦労だということですね。
 しかも、菩薩行よりも膨大な苦しみを味わう、その欲望追求の人生を歩んでも、彼らが悟ったり、仏陀になったりするということはありません。単に悪業の上に悪業を積み重ね、心を汚し、雪ダルマ式に悪趣の道に突っ込んでいくだけです。
 だから智慧ある者は、この辺をしっかりと考えるべきです。考えるコツは、まず頭で理解し、そして次にそれを自分の心に納得させることです。

「お前が望んでいる方向(欲望追求)には、たしかにわずかな楽しみがあるかもしれないが、それと不釣合いな膨大な苦しみも常にセットなんだぞ。しかもそこで悟りを得ることなどもちろんなく、どんどん心もカルマも汚れ、苦しみも増していくだけなんだぞ。
 それに対して菩提行の道は、一見苦しく見えるかもしれないが、実際はそこで生じる苦しみは、欲望追求の苦しみよりはるかに少なく、そして徳の力、浄化された心の力によって、大変な喜びが伴うんだぞ。そしてその果てには、完全なる智慧と至福である、仏陀の境地が待っているんだぞ。そしてその道を自分が歩くことによって、多くの他の人も、苦しみから解放され、至福にいたるんだぞ。」

--このようなことを、自分の心、エゴに言い聞かせるべきですね。

 結局、修行というのは、楽しいことを我慢して、苦しいことをやっているわけではないのです。「苦しくて意味のないこと」を放棄して、「本当に楽しいこと」を追求していると言ってもいいでしょう。しかし自分のエゴ、心というのは馬鹿なので、何が本当に楽しいこと・利益のあることであり、何が不利益なことであるかということを錯覚しているのです。錯覚のままに、何生も何生も、何億年も何兆年も生まれ変わってきたわけですから、そろそろその自分のエゴの錯覚を修正してあげてください。
 このような文章をあなたが今読んでいること自体が、その類まれなチャンス、錯覚から脱却する可能性を手にしているということです。

【本文】

 剣も、毒も、火も、険しい崖も、あだなす敵も、欲望によって生じる苦しみの比較にならない。なぜなら、(欲望の追求によって)地獄などで受ける苦難が(経典のうちに)伝えられているからである。

 以上のごとく欲望を離れ、現世から遠く離れることに喜びを生ぜよ。争いと憂いのない静かな森の地で。

 そこで人は、月光のビャクダン油によって涼しく感ぜられ、宮殿のテラスのように広やかな、楽しい岩盤の上で、騒音なく、快い森の風に吹かれながら、幸せにあちこちと経行する。そして他人の幸福を思う。

 どこであっても、人なき家に、木の下に、洞窟に、彼は望む間だけくつろいで住み、所有とか(所有物の)保護とかの悩みから逃れ、願慮を捨てて、思うがままに振舞う。

 心のままにさすらい、家なく、なんら束縛のない人--かかる人の味わう満足の楽しさは、インドラ神にすら得がたい。

【解説】

 このような、現世を離れた遊行者的な生き方はいいですね。あこがれますね。
 しかし私は個人的には、現代の日本に生まれ、修行するカルマを持った修行者、菩薩たちは、そのようなカルマにはないと考えています。実際に全ての所有物を捨てて乞食のように生きるのは、現実的ではないでしょう。
 しかしそうであっても、精神的には常にこのようであるべきだと思います。家にあっても家なき者のように、便宜上所有物を持っていても、所有物という感覚を持たない。
 この現世の中にいながら、現世に巻き込まれずに、本文にあるような、欲望や現世から解放された心の状態であってください。このような人が現世にいるのは、もちろん、他の人に恩恵を与える、ただそのためだけなのです。泥沼に咲く蓮華のようであってください。そして蓮華が泥に汚されないよう、常に正念正智で自己の心を監視し、正しい思いを持ち続けてください。

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