yoga school kailas

歓喜の拷問

 昨夜、寝ていると、体中を襲う強烈な歓喜で目が覚めた。それは拷問のような激しいエクスタシーだった笑・・・

 ヨーガ修行を進め、クンダリニーやトゥモといったものが覚醒し、上昇し、甘露(アムリタ)が落ち、循環し・・・といったクンダリニーヨーガの修行が進んでいくと、様々なタイプの歓喜、すなわちエクスタシーを経験するようになる。

 その人の修行のタイプや進み具合によって歓喜の種類や強さもまちまちだ。単に行法だけでクンダリニーの修行を進めても、歓喜が生じない場合もある。それは徳や祝福、慈悲などが足りないからだが、ここではその辺の話は割愛する。

 正しく修行を進めると、気道、すなわち気の通り道は歓喜の気道になる。そこを流れる気も、歓喜に満ちた気になる。また、甘露というのはそもそも歓喜の塊である。
 歓喜の気道を、歓喜に満ちた気や甘露が通り、満ちていくわけだから、エクスタシーが生じるのは当たり前だ。

 このエクスタシーは、初期のころは非常に強烈で粗雑で、徐々に落ち着いてくるというか、より深く微細で静かな歓喜に変わっていく。

 そしてたとえば多くの人と接したり、その他の理由で気道が詰まったり、エネルギーが濁ったりすると、歓喜は消える。その場合、しっかりまた修行して、気道を通したり、エネルギーを浄化しなければならない。そうすることでまた歓喜は復活する。

 しかしこの種の修行がかなり進み、安定してくると、浄化は自動で行われるようになってくる。
 たとえば何らかの理由でいったん気道が詰まり、エネルギーが濁ったとする。そうすると別に特に修行などをしなくても、自動的に、気道を通し、エネルギーを純化しようとするシステムが働き出す。

 このときも歓喜を感じるのだが、この、自動的に詰まり等を浄化しようとして生じるときの歓喜は、何ともいえない歓喜なのだ。それは強烈な、苦痛ともいえる歓喜である笑。
 歓喜なのに苦痛というのはおかしいかもしれないが、ちょうどそれは、体をくすぐられる感じに似ているかもしれない。普通くすぐられるのは単にくすぐったいだけで気持ちいいわけではないが、ああいう感じで、「もうやめてくれーー!」という感じの強烈な歓喜が体中を襲うのだ笑。

 まあ、とはいえ、通常はそれは、苦痛ではあるが何とか耐えられるエクスタシーではある。

 しかし昨夜突如私を襲った歓喜は、本当にもう耐え難いものであった笑。エクスタシーの強烈さもものすごく、本当に拷問のような耐え難い歓喜(笑)。その強烈な歓喜のエネルギーは胸、心臓から発され、体中を駆け巡っていく。

 私はいつもは座椅子に座ってリクライニングを少し倒してそのまま寝ることが多いのだが、その姿勢だと、その強烈な歓喜のスイッチが入りやすいことが分かったので、座椅子をやめて床に寝た。そうしたら何とか静かに眠ることができた笑。

 私は自動的な浄化による歓喜の苦痛の経験はしょっちゅうあるが、昨夜のものは今までにないほど強烈なものだったので、記録の意味で書き記してみました。

 まあこの浄化のときの苦痛のような歓喜はともかく笑、正しいヨーガ修行によって気道や気が浄化され、甘露が落ちることによって生じる歓喜は、本当にえもいわれぬ素晴らしいものです。セックスやドラッグなどとも違う、精妙で、すがすがしくとろけるような歓喜が、指の先まで、体中を満たしていきます。そして智性を目覚めさせ、心を広く大らかにしていきます。

 このように、ヨーガ修行によって得られるものには、一般に考えられているもの以上の、素晴らしい恩恵がたくさんあります。
 ぜひとも多くの人に、ヨーガ修行によって、このような歓喜、そしてそれ以上の多くの宝物を、経験し体得していっていただきたいと思います。

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