曼荼羅供養とグルヨーガ、前行について
曼荼羅供養とグルヨーガ、前行について
ツォクニー・リンポチェ
◎吉兆なる秘密の意味
曼荼羅供養の目的は、エゴへの執着と、「自分」という何かにしがみつく概念的態度の放棄である。
外、内、最奥の曼荼羅供養を用いて、すべてのものを捨てることは、すべてのタイプの執着を放棄することとなる。
加えて、功徳の集積は自動的に完全になる。
最初の曼荼羅供養は、神々の王ブラフマーとインドラが、ダルマを説いてくださるようにブッダに懇願した際に、完全なる悟りに達したブッダを求めて作られた。
千の黄金の輪と右回りに巻かれた驚くべき希有な白い法螺貝をブッダに捧げることで、彼らは、法輪を転じ、教えを説き始めることをブッダに懇願したのだ。
その後、チベットの王ティソン・デツェンは、自らの国にブッダのダルマを確立させるために、パドマサンバヴァをチベットに招待した。彼は、供養に添えるように四行の詩を書いた。
王は、教えの懇願と共に、パドマサンバヴァに曼荼羅の供養をしつつ、供物として、中央チベットの三つの地域すべての王国全土を彼に捧げた。
王国を供養しながら、王は、われわれが現在でも唱えているこれらの詩を唱えた。
「この土台は、良い香りのする水の芳香で満たされ、花が散りばめべられ、
スメール山、四つの大陸、太陽、月で飾られる。
これをブッダの領域だと観想することで、わたしはそれを捧げ奉る。
それによって、すべての衆生が、その純粋な領域を楽しむだろう。」
わたしは、ヴァジュラヤーナの教えが、自然で吉兆なかたちで、このように長い時の間、チベットに残ることができたのは、この曼荼羅の供養をした王の、吉兆なる秘密の意味のためであったと聞いた。
その「吉兆なる秘密の意味」の実体とは何か?
それは、エゴへの執着の完全なる明け渡しからなる。
それは本質的に、「わたし」や「わたしのもの」として執着されるすべてのものを明け渡すことである、曼荼羅供養の修行についてのものである。
また別の観点からいうならば、王は、完全に心を開いていたと言えるだろう。
彼は、彼のものとして執着していたどんなものでも、パドマサンバヴァに捧げた。そして彼はヴァジュラヤーナの教えのために、真の供養の受け手であるグルに、自らを捧げた。
エゴへの執着を完全に明け渡すことで、王ティソン・デツェンは、チベットに、ヴァジュラヤーナの教えの真の礎を確立した。
彼の王国全土を捧げることは、信じられないほど勇気ある行為などというものではなかった。
それは同様に、一時的にエゴへの執着の中に隙間を作る道である。
もちろん、エゴへの執着は、完全に、永久に、あっという間に消し去られるということはないだろう。それは、厳しい修行によって起こるプロセスである。
それでも、エゴへの執着の一時的な停止は、本質的に、真に優れたものである。
◎マンダラ供養の目的
ある人々はこう言うだろう。「あなたは、スメール山、四つの大陸、太陽、月などを、それらは実際に、あなたやわたしのものではないのに、どのようにして捧げるのですか? わたしはどのようにして、それらをあなたに捧げることができるのですか? それらは王ティソン・デツェンのものでもなかったのです。なのに、彼はどのようにしてそれらを捧げたのですか?」
このように、重箱の隅をつつくように考える必要はない。
実際のところ、われわれの世界は、われわれに属している。
われわれが五感を通じて知覚するものすべて、そしてわれわれの心の領域で起こるものすべては、われわれの世界、われわれの人生を構成する。そしてわれわれ自身の経験の内容として、それは、「与えるためにある、われわれもの」である。
われわれの個人の経験は、他の誰にも属していない。よってわれわれは、われわれの世界として知覚したものすべてを捧げることができる。
曼荼羅供養の一つの目的は、エゴへの執着を取り除くことである。
もう一つは、功徳の集積を完成することである。
与える行為は、与えられるものの供養だけでなく、ものの創造に費やされた努力の供養でもある。
例えば一つのバターランプを捧げるとき、あなたは、ランプの芯に火を灯す行為だけでなく、同様に、バターや油を手に入れ、器を創り、形作られたその器のための材料を提供するなどの作業も捧げている。
この原則は、他のタイプの供養にも適用される。
基本的に、すべてのその取り組みは、功徳を積むものである。
いくらかの人々は、驚くほどすぐに功徳の概念を理解する。一方その他の人々にとっては、それは理解し難い。
功徳は、何よりも確実に存在する。
世界中の他のすべてのもののように、それは、原因と条件によって形作られる。
すべての現象は、原因と条件によって生じる。
自主独立性の実体は何も存在しない。
すべてのものは、原因と条件に依存している。
例えば、あらゆる物質的なものは、四大元素に依存している。
特に西洋では、物質性を重要視することで、物質に非常に依存している。
他のすべてのもののように、功徳は、原因と条件に依存している。
功徳の集積によって、良い状況は作られるだろう。
例えば、ダルマと出会い、修行の教えを受けるには、確実で有益な条件を必要とする。これを生じさせるためには、功徳が必要となる。
◎グルヨーガとマンダラ供養の重要性
曼荼羅供養は、チベットの伝統における前行であるという理由で、非常に深遠なる修行である。
わたしは個人的には、すべての前行は非常に重要だが、その中でも最も深遠なものは、おそらくグルヨーガと曼荼羅供養であるように感じる。
それは、他のものが深遠ではないということではない。
人々はよくわたしのところに来て、このように言う。「わたしは、礼拝、帰依の理由が分かりました。また、ヴァジュラサットヴァの修行の浄化の様相も分かりました。しかし曼荼羅供養をする意味だけが分からず、またグルヨーガも理解できません。」
この類の発言は、それらの修行が実際にいかに深遠であるかを示している。
エゴがそれらを受け入れるのは、容易ではないだろう。
エゴは非常に巧妙で、エゴの土台を壊すあらゆるもの、そしてエゴが執着しているお気に入りの行為が有害だと証明するあらゆるものへの疑念をわれわれに対して持ちたがる。
これは、全くの真実である。――自分で確かめてみなさい。
何かがエゴに害を及ぼすときはどんなときでも、エゴは、それに疑念を持たせようとするだろう。
われわれは最初から、このトリックを認識する必要がある。
礼拝は、人々にとって理解し易い。
ある人々はまるで、それを良い身体的なエクササイズであるように見なす。
彼らはそれらは健康に良いと思っているのだ。
「おお、分かりました。礼拝は、わたしの足腰を強化してくれるのですね。
瞑想で長い間座って腰が痛くなったら、それを直すために礼拝をやります。
眠くてやる気がないけれど、礼拝は、怠惰さを切り刻んでくれるのですね。
帰依は非常に重要なものであると思います。わたしたちが何を為そうとも、わたしたちにはガイダンスの類が必要なのですね。よってわたしたちは、ブッダをわれわれの導き手とし、ダルマを道やテクニックとし、サンガを法友とするのですね。わたしは完璧に帰依を理解しました。
そしてヴァジュラサットヴァは、慈悲深き空性の顕現であり、その本性の姿であるのですね。理解しました。マントラを唱え、この物体がわたしに溶け込むと観想するすることで、わたしは、わたし自身についてのあらゆるこの罪悪感は、なくなってしまいました。だからこれは素晴らしいことです。
カルマや、あらゆるこれらの事柄は、わたしはよくわかりませんが、気にしません。わたしには、確かにいくらかの心の悩み、いくらかの感情的なパターンがあります。わたしはそれらを浄化しなくてはなりません。それは理にかなっています。」
「しかし、曼荼羅供養、わたしはこれを理解できません。全世界を供養する。――それは、わたしに属してさえいないではないですか。スメール山は存在さえしていないし、七つの大陸が実際に存在しているのに、四つの大陸とは何ですか? そしてなぜ、太陽と月を供養するのですか? それは、ばかげたことです。――本当にむちゃくちゃです。
そしてその祝福についてのことですが、わたしはそれを受けていません。そしてなぜわたしたちは、結局のところ、わたしたちのように血や肉で作られた体を持つグルに、懇願しなければならないのですか? それに何の意味があるのですか?」
これらの疑念は、われわれが、「グルヨーガ」や「グル」というものが真に意味することを、真に理解していないから生じるのだ。
グルとは、ただあなたが出会った特別な人というだけではない。
グルの本質は、多くの事物に行き渡っている。
ニルマーナカーヤ、サンボーガカーヤ、ダルマカーヤ、そして本性身であるスヴァバーヴィカカーヤとしてのグルが存在する。
われわれの生活状況の中に、肉体を持った師として顕現するグル、そしてわれわれの経典としてグルが存在する。
それから、われわれ自身の本質的な本性であるグルが存在する。
われわれは、それらの様相のすべてを、グルとして理解するべきである。
もしあなたが、木から何かを学んだならば、それは、象徴的経験としてのグルである。
もしあなたの妻が、あなたに何かをおこない、あなたがそこから何かを学んだならば、あなたの妻は、その状況においてはあなたのグルの顕現である。
グルヨーガの目的は、根本のグルの祝福と、系統のグルたちの祝福を受けることである。
自己の本性の自己認識の覚醒における認識と安定性は、生きた師による直接の伝導なしでは起こらない。
したがって、生きた師と繋がることとグルヨーガを修習することは、重要なエッセンスである。
◎前行が必要な理由
主要な修行の前に前行が来る理由として、とても良い説明がある。
すべての前行の一つの様相は、何かをすり潰すためのすりこぎのようであり、あなたの怠惰さを粉砕することを意図している。
石のすり鉢とすりこぎでアチャール(チベット式ホットソース)を作ることを想像してごらんなさい。
このアチャールを作る際に、ガーリック、ジンジャー、チリペッパー、スパイスを続けて加え、それらを一緒にすり潰して滑らかなソースにする。
前行も、それと同じなのだ。
あなたはまず、すべての怠惰さが消えるまで、礼拝で、そしてヴァジュラサットヴァの修習で、そして曼荼羅供養で、そしてグルヨーガで、怠惰さを粉砕する。
もしあなたが、効果的で綿密な方法であるそれらの修行を真に通過したならば、怠惰になる余地や、個人的な安楽にしがみつく余地は全くない。
すべての前行が終わった後、われわれは、瞑想で一時間、五時間、六時間座れるようになっていると気づく。それは本当に、休みを取っているかのように感じる。
「わたしは以前はこれらの修行が非常に辛かったが、今は全然辛くない。――わたしは何時間も座って瞑想することができる。」
――これは、怠惰さを放棄し、完全に克服したからである。
あなたはそれは、一万回だけ繰り返すだけで十分であると考えるかもしれないが、われわれの伝統では、それぞれを十万回ずつやるのだ。
この量をこなしたとき、怠惰になることは決してない。
あなたが本当に辛抱して、本当に自分を駆り立て、多くの努力をしない限り、これらを終わらせることはできないだろう。
このように、それぞれの修行を十万回ずつやることによって、「怠惰さ」は、戻ってくる勇気をなくすだろう。
「怠惰さ」は、こう独り言をつぶやくだろう。――「ここにいると、こっぴどくやられちまうだけだ。また戻れば、おそらくまた十万回も叩かれるだろう。ならばこれ以上、この男の周りをうろつくのはやめよう。」
――わたしは、ここで冗談を言っているのではないのだよ。
これは本当に真実なのだ。
すでに自己認識の覚醒を認識した修行者にとって、前行を行うことは、すべての怠惰さを完全に消滅させ、それによって、何も残らなくなる。
同時に、それらの修行は、功徳と智慧の集積も完全にし、すべての障害物を取り除く。
心の本性は、それを不明瞭にするものを取り除く着実なプロセスによって、どんどんあらわにされる。
このすべては、前行を行うことによって生じる。
ときどきわれわれは、自分が為していることが無意味だと感じるだろう。
どれだけ透明に、明敏に、光り輝き、慈悲深くなろうとしても、効き目がない。
無智とネガティブな感情に、繰り返し支配される。
これは、単に自己を見つめること以外の修行が必要なときである。
さまざまな修行によって集積されたすべての功徳は、本行の前に、繰り返して生じる無智を引き起こすものを取り除き、激しい感情的な状態を減少させる。
これが、実のところ、前行の要点のすべてである。
前行を通過することによって、あなたは、すでに多くの功徳を集積し、すでに激しい感情を減少させた状態で、本行に臨むことができるだろう。
その後あなたが、大いなる完成の境地にありのままにあろうとするときに、その状態を自然に、長い間持続させることができるということに気づくだろう。
リクパを持続することは、もっと容易になるだろう。
前行は、リクパの修行に取り掛かる上で、非常に効果的で、実際的な方法である。
感情的な状態は、作られたものである。よって、適した治療法によって、それらを破壊することができるのだ。
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