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日々の生活における十二縁起

◎日々の生活における十二縁起

 で、さっき言った日々の生活における十二縁起というのを考えてみた場合――じゃあ、何がいいかな。例えば、ではU君、食べたことないものってある?

(U)食べたことないもの? フォアグラ。

 フォアグラか。ではフォアグラにしましょう。じゃあフォアグラがあったとするよ。はい、U君がフォアグラを食べました。これはその経験が行としてU君の中に入ります。でもこの行は、この経験そのものは、U君の真我、U君の本性とは何ら関係がない。関係ないんだけど無明だから関係があると思ってしまうんです。

 これによって識別が生じます。つまり、おいしいと思ったとしたら、「フォアグラはおいしいのである」という識別が生じるんです。いいですか?  で、それが名色へ移行する。どういうことかというと――ちょっと今からわたしが言うことは理解できないかもしれないけど――U君が「フォアグラがおいしい」っていう識別を成立させた段階で、その「フォアグラを味わうためのU」というものが生まれるんです。つまり、今U君があるのは、さまざまな行と識によってあるんです。その行と識を実現させるために、「おれ、Uです」っていうのが存在してるんだね。それがなかったら存在しないんです。そもそも。

 だから、フォアグラはうまいのだと。これを現実的にこの世で味わうためにU君という存在がバーンって確立されてる。これは瞬間瞬間そうなんです。瞬間瞬間、実は、目に見えないけどね、ずーっと今、U君がいるように見えるけど、実は瞬間瞬間、U君は生じては滅し、また生じている。あまりにも早いから分からないだけなんだね。

 フォアグラ一個じゃないから、本当はね。いろんなU君の行と識がある。そのあらゆるU君の潜在データを、そこから来る識別を実現させるために、今その総合的なものとしてこのような顔と形と性格のU君という存在がバーンってあるんです。

 前に夢のたとえで言ったけども、夢と十二縁起ってすごく似ているんだね。夢も、まず睡眠がありますと。で、覚醒していたら――つまり、無明じゃなかったら、われわれは――実際にこういう修行があるんだけど――実は意識を持ったまま眠れるんです。意識を持ったまま睡眠に入ることもできる。しかし、われわれは無明なので意識を失います。で、自分が寝てるということすら分からないまま、心の中にある起きていたときのいろんな深い情報みたいなものがガーッと出てきます。

 でもまだこの段階では、「だから何だ?」って感じなんです。ただ情報が溢れているだけ。で、その情報から識別が出てきます。

 例えば、フォアグラじゃ分かりにくいかもしれないけど――U君がある友達にね――例えば、佐藤君って人に昨日意地悪をされたとする。で、寝ました。で、意地悪されたら嫌だから、その強い印象というのはやっぱり出てくるんだね。つまり、まず睡眠の中で、何となく意地悪されたようなイメージがワーッと出てくる。で、これはまだ、ただそれだけなんです。意地悪されたときの感情みたいなものがワーッと出てくる。それが識になるっていうことは、「あの佐藤のやろう!」みたいな感じになってくるんです。その前はそうじゃないんだよ。ただ意地悪されたって情報だけがあるんだけど、そこから「佐藤許せん!」みたいな識別になる。で、その「佐藤を許さないためのU君」っていうのが、ここで確立されるんだね。

 夢の中でもそうなんです。夢の中で、起きてたときに佐藤君にいじめられてたときのイメージがなんとなくもわーっと出てきて、それがガチッと「佐藤許せん!」ってなって、「佐藤を許さないU君」っていうのが夢で登場するんです。

 夢って全部自分の心でしょ。全部自分の心なんだけど、その一部がU君として登場しているから、その他の世界というのは他者なんです。でもよく考えてみて下さい。でも全部自分なんです。

 これがこの現実世界においてもいえるんです。今、U君はカルマによってUって感じをもっているけど、他も実はU君なんです。U君が見てるこれは全部U君なんだよ(笑)。他の人もそうだよ。Kさんから見てるこの世界も全部Kさんなんだよ、実は。

 で、その中の一部をUって思ってる。で、その他者を、先ほど言った識別を――言い換えれば、欲求を満たすための道具として他者を登場させているんです。

 はい、この自分と他者が接触する――これも幻影なんだけど、先ほどのフォアグラで言ったら、実際にU君がフォアグラを食べる、もしくは食べるイメージをするでもいいんだけど。では、食べるっていうことにしましょう。フォアグラを食べましたと。この段階におけるU君っていう存在は、フォアグラを食べるために登場したんだから、絶対食べるんです、フォアグラを。で、フォアグラを食べます。ただし、カルマが悪かった場合食べられません。ちょっとこの辺は複雑なんだけど。じゃあ、フォアグラを食べるためにU君が登場しました。で、カルマがよかったのでフォアグラを食べることになりました。はい、フォアグラを食べましたと。ここで、もう既にその前段階で「フォアグラはうまい」という識別ができているから、ここで「おいしい」という感覚が生じるんです。

 おいしいという感覚が生じることによって、「おれはこれが好きだ」といういう渇愛が生じる。で、それは終わりね。で、また行が強まる。で、また行が強まるからまた識も強まって、また新たにフォアグラ食べたいっていうU君がより固まるんです。で、また食べる。

 これを繰り返しているうちに、フォアグラなしではいられなくなるんです。これが取だね。で、フォアグラなしではいられなくなったU君は、それまでは――取の前までは――つまり、渇愛と取の違いというのは、渇愛というのは「うわあ、うまいな」なんだけど、取っていうのは、それなしではいられない。

 つまり渇愛の段階っていうのは、夢のたとえでいうとね、フワフワした感じ――夢ってフワフワしてるじゃないですか。いきなり現われたり消えたりそんな感じなんだけど、取になるととらわれちゃって、で、それから有になるっていうことは、ガチっとその世界観が確定されるんです。フワフワした、消えたり現われたりする幻のような存在だった自分が、もうその世界に完全に結び付けられる。これが有だね。

 もちろんこれはフォアグラだけじゃないよ。先ほどから言ってるように、いろんなカルマがあっていろんな欲求があって、その集積として完全に結び付けられる。結び付けられることによって、われわれは瞬間瞬間この世に生まれているんです。先ほども言ったように瞬間瞬間発生しているんです。瞬間瞬間発生しては、苦を味わっているんです。これが十二縁起だね。

解説・スフリッレーカより

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