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新鮮な空の花の天蓋

新鮮な空の花の天蓋

カルマパ十五世カキャプ・ドルジェ

 ここに、「新鮮な空の花の天蓋」と呼ばれる小さな歌がある。
 これは、わたし自身の過ちを示し、単に本をかじったに過ぎない無味乾燥な理解によって思い出されたものすべてを、言葉に表したものである。

 ナモー グルヴァジュラダラヤ
 ヴァジュラダラであられるグルに帰依し奉ります。

 不変なる至福と空のマハームドラーの空間の中で、
 輪廻とニルヴァーナを合一させたヴァジュラの智慧のさまざまなダンスを踊ることで、
 彼は、衆生を偉大なる成熟と解放に確立する。
 ヴァジュラダラの蓮華の御足に敬意を表して。

 この良きカルパの第四の導き手であられる最上なる勝者アディティヤバンドゥの栄光なる声の偉大なる獅子の咆哮によって、ロド・タイェは、スートラの中でも一つも見ることのない称賛をもって称えられ、偉大なる戦士として予言された。
 過去・現在・未来の中で、彼は生じたことはなく、生じていず、生じるであろうこともない。
 彼は学問の主、シッダの中の最高者、教えのすべての主、カギューのヴァジュラダラの聖なる王国を治める偉大なるジェツン。
 彼の慈愛には限りがありません。
 彼のヴァジュラの御名は、非常に言い表しがたいのです。

 彼の慈悲によって長い間育まれた彼の家来、悪しき息子であるわたしは、全く徳に欠けており、カギューの系統の一番後ろの座についたに過ぎません。
 ブンブンと飛ぶ若い蜂の高邁なメロディの中で、わたしは、自分自身を理解するという経験に従ったわたしの悟りをささげるためのメッセージであるこの小さな歌をささげます。

 ナモー グル グナサーガラヤ
 徳の海であられるグルに帰依し奉ります。

 あなたは、偉大な慈悲の身体をお持ちの、遮られることなき顕現、
 ブッダ・ヴァジュラダラであられる根本の礎。
 あなたは、ブッダを人の手中に届ける慈愛をお持ちです、
 どうか、わたしの頭頂の装飾であられることをお楽しみください。

 この生において人間の身体を獲得し、
 わたしは、あなたの偉大なる慈愛に受け入れられました、主よ。
 あなた、この自由で恵まれた生を意味あるものにされるジェツンよ、
 どうか、わたしの心臓の真ん中にお住みください。

 あなたの息子は、信仰と切望を持って懇願します。
 父リンポチェよ、慈愛を持ってわたしを見てください。
 主よ、あなたの慈愛の光線によって、
 迷妄の自我執着という闇は消え去りました。

 この純粋なる究極の本性の境地の悟りの歌の中で、
 これらの未熟な言葉たちは、蜂の飛ぶ音のよう。
 たとえそれらは、父ジェツンには耳触りでも、
 抗し難き切望を持ったあなたの息子は、
 このナンセンスな言葉を綴った歌をささげます。
 どうか、慈愛を持ってわたしのことをお考えください。

 一般に、八つの有暇と十の稀有な状況を得た身体は、
 如意宝珠よりももっと素晴らしい。
 この身体を得て、
 わたしはそれが、曲げられていない功徳の力であると知る。

 わたしはそれを得たが、それは非永続的で、
 死の瞬間は、言われる通り、避けることができない。
 それがいつやってくるのか誰も知らないのだから、
 わたしは、「わたしにいつ死がやってくるのだろうか?」と思いを巡らす。

 カルマの因果の法則は、植えつけられた種のように、
 すべての者の中で確実に成熟する。
 自と他を惑わすわたしの行為のせいで、
 わたしは、「わたしの最後はどのようになるのだろう?」と思いを巡らす。

 一般に、輪廻の大いなる都市である迷妄は、
 終わりがなく、激しい苦しみで満たされている。
 わたしはこれについて考えるとき、気が狂いそうになる。
 恐怖に駆られて、わたしは、「わたしは解放されるのだろうか?」と思いを巡らす。

 わたしの身体は、悪しきカルマの風に吹かれ、
 誤った道という断崖から落下した。
 今、わたしは輪廻という沼に沈む。
 ――どうか、ここにいるわたしを見てください!
 優しき主よ、尊きグルよ、
 どうか、この恐怖からわたしをお守りください。

 悪しきカルマの裂け目から、善きカルマを見出した。
 わたしは、シュリー・チャクラサンヴァラである、精髄をお持ちの
 素晴らしき真のブッダである父ジェツンに出会った。
 自我執着の迷妄という皮はわたしから剥がれ落ち、
 愛著と嫌悪によって縛られた大いなる結び目は緩められた。

 三毒によって生み出される煩悩に関しては、
 それらの生起、生起そのもの、そしてそれらを生起させるもの、
 それら一切が心の投影。
 鏡に映る像のように、
 それらの本質は空性。
 海と同化している波のように、
 それらは、空っぽの例えようのない空間の中に消えていく。

 外的な現象の対象――形、音、匂い、味、触感、
 これらすべての現象は、
 心の魔法のトリック以外の何ものでもない。
 砂の城を建てる子供のように、
 名前に固着しているのは、心である。
 これが非真実であると悟ることも、同様に心。

 よって、心から分かれて存在するものも、
 実体も、印も存在しない。
 すべてのものは、悪である輪廻と、善であるニルヴァーナといわれる心の顕現であるという悟りは、形や実体としては存在しない。
 心は、自ら存在する心の本性の境地、ダルマカーヤの顕現であるという悟りは、形や実体としては存在しない。

 それは完全に、類推によって示される存在ですら超越している。
 「空性」と言うことは、全くの否定の言葉ではない。
 むしろ、その本性は、
 空間のように、すべてに遍在する光明である。
 「遍在」と言っても、実体を立証するのではない。
 空間のように、
 それは存在しないのだが、遍在する光明である。
 そべてのものはその光明から生じる。
 それは生じるにもかかわらず、分けられるものとして存在しない。
 しかし、その光明の本質の中に解放されている。
 空に浮かぶ雲のように、
 それは空間から生じ、空間に溶け込んでいく。

 要するに、現象世界は心である。
 その光明の様相から、現れが存在する。
 その精髄の様相から、空性が存在する。
 ブッダも衆生も、分かれて確立されるものとしては存在しない。
 神々や悪魔といわれる一切のものは存在しない。
 すべては心。
 心は自ら存在する光明。
 それは、一切の生起、滅尽、そして投影を超越している。
 それは、住むこと、来ること、どこかへ行くということがない。
 ヴァジュラダラは、
 この、言葉で表せない心に他ならない。
 心は光明。
 わたしは、これはそのようであるという悟りを確信している。

 ジェツンよ、この悟りはあなたの慈愛。
 リンポチェよ、今わたしはあなたの慈愛を思い出しました。
 どうか慈愛をもって、カルマの悪いわたしを見てください。
 父ジェツンよ、究極のヴァジュラダラよ、
 何度も何度も、わたしはあなたを思い、信仰心が燃え上がるのです。
 取り乱すことなき切望をもって、わたしはあなたに懇願します。
 父よ、われわれが、会うことと別れることを超えることができるよう、
 祝福をお与えください。

 この経験の歌を、
 わたしは、あなたの耳にささげます、父ジェツンよ。
 もし、誤謬というけがれがあったならば、
 どうか、心のこもった慈愛というアムリタで、それを洗い流してください。
 この息子は、一心の切望をもって懇願します。
 どうか、あなたの慈愛の鉄の鉤で、わたしを受け入れてください。

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