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ガンポパへの教え

 ガンポパが師ミラレーパに初めて会ったとき、ガンポパはこう尋ねました。

「グヒャサマージャ、チャトゥピータ、その他のタントラの中に、このように説かれています。

『師の一つの毛穴に供物をささげることは、
 三世の仏陀に供養するより優れている。』

 このように、『人は宝石の山を三世のブッダに供養するかもしれないが、それよりも、グルの一つの毛穴に供養する方が、大いなる功徳となる。』と言われていますが、これよりもさらに深遠な功徳の集積の方法はあるのですか?」

 ミラレーパは、「ある」と答えました。

「どうか、それをわたしにお教えください。」

 ミラレーパはこう言いました。

「お前が無駄にすることなく、グルに与えられた口頭の教えを実践するならば、それがまさにそれだ。」

 それから、ガンポパはこう言いました。

「わたしは、ゲシェ・ニュグルンパに、一生の間に、一つの身体で、ブッダフッドに到達することは可能かどうかを尋ねました。すると彼は、
『その場合、今生に対するわずかな考慮も持たないことが必須である。』
と言いました。
 また、同様の質問をゲシェ・ヤルルンパに尋ねると、彼は、
『それは真の意味ではない。あなたは、太陽と月のように永遠なる命をあなたに与えてくれる丸薬を飲むことで、七回生まれ変わった後、神聖なるイダムを見神することで、ブッダフッドに到達することができるでしょう。あるいは、天の領域に旅することができるでしょう。』
と言いました。これらの中のどれが真実なのでしょうか?」

 ミラレーパはこう答えました。

「ゲシェ・ニュグルンパが言ったことは、真の意味である。お前は今生への考慮を捨てねばならない。真のグルが、マントラヤーナの曼荼羅の中で完全なるアビシェーカを受け、生起次第と究境次第の口頭の教えを絶えず修習する類まれな器を持つ弟子を持つならば、その中で高度な潜在性を持つ弟子たちは、今生でブッダフッドに達するだろう。中くらいの潜在性を持つ者たちは死の直前に、あるいはバルドの中でそれに達する。もし彼が非常に怠惰だとしても、彼らは六生、あるいは七生でそれに達するだろう。」

「一般に、医者の修行僧よ、お前は、見解を哲学化した者たちを信用すべきではない。彼らの話は聞くな。彼らに従うな。瞑想を実践する者たちを信用しなさい。彼らの話を聞きなさい、彼らに従いなさい。
 最高のアドヴァイスは、今生を放棄した聖なる者にしがみつくことだ。今生を放棄していない者たちは、八つの世俗のダルマをお前に説くだろう。
 その上に、空性に関して邪見に陥る四つの道がある。それらは、レッテルとして空性にとらわれることによって邪見に陥ること、理解でき得るものの本質として空性に関して邪見に陥ること、対抗手段として空性に関して邪見に陥ること、そして、空性に執着することによって邪見に陥ることである。」

「レッテルとして空性にとらわれることで邪見に陥るということは、掴み、固着している心の一切の対象は空であるとただ口に出すだけのことをいう。
 理解でき得るものの本質として空性に関して邪見に陥るということは、輪廻とニルヴァーナの一切のダルマは空であるとただ口に出すだけのことをいう。
 対抗手段として空性に関して邪見に陥るということは、思考と煩悩を空として類型化することで十分であるとただ考えるだけのことをいう。
 空性に執着することによって邪見に陥るということは、瞑想するためのものは何もなく、空として一切の瞑想経験を見なすということをいう。
 これらは真の道ではない。にもかかわらず、初心者においては、これらは執着を放棄するために役立つ。」

「一般に、お前が十分に心をその深みに還元することができないのならば、たとえ、一時的に至福、光明、無思考を経験しようとも、お前は三界を超越しないであろう。
 これらは、一時的な経験として知られている。なぜならば、彼らは心をその深みに還元することができないからである。
 しかし、もしお前が、『真の道とは何か?』と尋ねるのならば、それは、真のグルが、類まれな器を有する弟子に、伝達と教えを与えるときである。」

「原初の意識は内に存在し、そして、一切の衆生に遍在している。
 一切のブッダは、ダルマカーヤの中の光明である。
 ヨーギーは、無限のウパーヤ(方便)によって瞑想を実践し、それによって、彼らは見解を自然に悟る。
 煩悩は自然に停止する。
 散漫な思考は自然に断ち切られ、智慧は自然に現れる。
 このときに、悟りと経験は言葉では表現不可能となる。
 例えばそれは、若い女のエクスタシー、あるいは無音の夢のようだ。
 この土台は、一切の衆生の中に遍在するが、それは認識されない。
 したがって、正しいグルに付き従うことは、非常に重要なのだ。」

「原初の意識に起源はない。
 その門は何にも閉ざされることはない。
 それは、いかなる言葉によっても到達されることはない。
 それは、詭弁によって論証されることはない。
 よって、人はそれを作り上げようとするべきではない。
 それをありのままの境地の領域でくつろがせなさい。」

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