心を広大無辺に
バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」
2006・12
※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。
◎心を広大無辺に
【本文】
『無数の河川が流れ入ろうとも、海は泰然として不動であるように、様々な欲望が次々に起ころうとも、それを追わず取りあわずにいる人は平安である。
物欲肉欲をすべて放棄した人、もろもろの欲望から解放された人、自意識や執着心のない人、このような人だけが真の平安を得るのだ。
プリター妃の息子よ!これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道で、これによって一切の迷妄が消え去るのだ。したがって、たとえ臨終の時にでもこの心境になる人は、必ずや涅槃の境地に入ることとなる。』と。
【松川】
はい、これでこの章は終わりですね。
ここに一個の石があったとします。それは5センチ四方くらいの、小さな石だったとします。
それをコップの水の中に投げ入れたら、水はあふれてしまうし、あるいは勢いが強ければ、コップも割れてしまうかもしれないね。
洗面器の中だったら? あふれるかはわからないけど、すごく水は波立つね。
プールの中に投げ入れたら? ポチャンって音はして、プールの水全体に影響はあるだろうけど、まあ、そんなんでもない。
海の中に投げ入れたら? たとえば太平洋に石を一個投げても、海自体はほとんど影響をこうむらないね。
これと同様に、広い心を持つ人はね、もろもろの執着とか怒りとかに、翻弄されないんだね。
つまり、ここでいう執着とか怒りっていうのは、本来は真の自分とは何の関係もないんだね。単に、グナとよばれるエネルギーが織り成している幻にすぎない。そういうのが心の中に現われては消えていくわけだけど、常に神に心を合わせ、広大な精神状態でいる人にとっては、そんな小さな執着や怒りの幻影なんていうのは、まったく意に介するものではない、関係ないんだね。
でも心の小さな人は、そういった心の波立ちにすぐに反応し、取り込まれてしまう。そしてさっきも言った、十二縁起のプロセスに巻き込まれていくんだね。
しかしこの「小さな心」っていうのもね、後天的なものなんだよ。本来はわれわれの心は、誰であっても、まったく限界のない、無限に広大な心なんだ。しかし十二縁起のプロセスによってね、愛着したり嫌悪したりしているうちに、自分で自分の心に壁を作り、制約を作り――ということを何回も何回も生まれ変わりながらやっているうちにね、海がプールになり、プールが洗面器になり、そしてとうとう、小さなコップのような、狭くて壊れやすい心になってしまった。
だから修行というのは逆に、心を広大無辺にしていくプロセスなわけだね。
そして実際にはそのためには、ここに書かれているように、物欲、そして性欲を中心にした愛欲、こういったものを自分の心から取り除いていくプロセスが必要なわけだね。そして心を神に合わせ、エゴを破壊していく。
エゴという心の壁を取り去り、絶対真理に心を合わせる。それにより、われわれが本来持っていた広大無辺な心――それは正確には『心』といえるのかどうかわからないけど――広大無辺な、絶対真理と合一した状態に、一生をかけてね、何を犠牲にしても、われわれはそれを達成しなければならないんだね。
もちろんそのための具体的方法論は、またいろいろある。それはこのバガヴァッド・ギーターでも、この後にもいろいろと出てきますね。
それでは今日はこの辺で、第二章の解説は終わりにしましょう。