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心とは

◎心とは

【本文】『人は自分の心によって自分を向上させるべきである。決して下落させてはいけない。
 心は、自分にとっての親友でもあり、同時に仇敵にもなる。

 自我心を克服した人にとっては、心は最良の友である。
 しかしそれをできない人にとっては、心こそ最大の敵となる。』

 はい。ここはとてもいいところだね。これは入菩提行論にも同じようなところがありましたが、人は自分の心によって自分を向上させるべきである。決して下落させてはいけない。心は、自分にとっても親友でもあり同時に仇敵、まあ仇でもあると。自我心を克服した人にとっては、心は最良の友である。しかしそれをできない人にとっては、心こそ最大の敵になると。
 これは書いてあるとおりなんだけど、結局すべては心なわけだよね。そして入菩提行論とかにもあるように――例えば入菩提行論にはこういう過激な表現がしてあるわけだけど――「この心のせいで私は過去において何万回も地獄に落とされた」と。「こんなやつを許しておけるか」と(笑)。そういう表現がしてある。つまりそれは悪いパターンだね。自我を克服できない人にとっては心こそ最大の敵であると。
 つまり心と言われているものは何かというと、過去からわれわれがいろいろな経験をしてきて、その経験によって錯覚を積み重ねてきて、それによってできあがった一つの方向性を持ったものだね。で、それをわれわれは心と呼んでいるわけだけど、この心が――例えばあるときは頭では仏教とかの教えが入っていたとしても、ヨーガとかの教えが入っていたとしても、心が怒りに燃え、バーッと怒りを相手にぶちまけると。この怒りのカルマによって地獄に落ちる。あるいは頭では布施とかあるいは奉仕とかの精神を学んでいても心が貪りにとりつかれて人の物を奪うと。これによって餓鬼に落ちると。つまり、おれを、この私を低い世界に落っことして苦しめているのはこの心なんだと。
 もちろん日常的にもそうだよね。日常的に頭では「ああ、この人は私の最大の友だ」と思っていても心は憎んでしまうと。あるいは頭では「ああ、こういうときはこういうふうに考えなくてはいけない」と思っていても心はもう苦しみで一杯になってしまう。つまりこの心こそがわれわれを今生でも苦しめ、来世でも低い世界へ落とす最大の敵なんだと。
 もうちょっと別の言い方をすれば、ここに自我心って出ていますが――つまりエゴのことね。もうちょっと言えば「私」っていう感覚。「私」っていう感覚がある限り、これはラーマクリシュナの素晴らしい言葉があって――それは、「私の苦しみはいつ終わるのですか?」と。「はい、その『私』を捨てたときです」と(笑)。ね。私の苦しみはいつ終わるのですかと。その私を捨てたときに終わるんだよと。私が、私っていっているのが苦しみの原因だよと(笑)、そもそもの。

◎ヨーガの意味

 まあ、ここでこの言葉がなぜ出てくるのかっていうと、もともとね、最初に言ったようにこの章っていうのはディヤーナ・ヨーガ、つまりわれわれの知っているヨーガの世界に入ってきたわけだけど、われわれが普通に知っているこの瞑想を中心としたヨーガっていうのは、そもそもこのヨーガの語源っていうのは何かというと、御者がね、御者っていうのは馬車とかの馬の運転手ですね。御者が手綱を持って馬をコントロールすること、これをヨーガといいます。もしくは馬と馬車、あるいは御者と馬を繋ぐロープね。これでしっかりと繋ぎとめる。これをヨーガといいます。で、ここから転じて自分の心をしっかりとコントロールし自分の支配下に置くこと、これをヨーガと呼ぶね。で、そこからさらに発展して、心だけじゃなくて自分のエネルギーとかあるいは肉体までも、あるいは神経組織とかすべてを支配化に置いてしまおうと。これがヨーガなんです。
 だからみなさんがアーサナから呼吸法とかを始めると例えば、「いや、私は神経はたかぶって眠れない」とか、あるいは「いつもこういうときにこういう精神状態になってしまう」とか体がいうこと聞かないということがだんだんなくなってくる。つまり体の、肉体とか神経組織とか気の流れとかがだんだん支配下に置かれてくるわけだね。で、最終的に最も難しい心のコントロールに入っていくわけです。
 心っていうのはさっきも言ったように、頭で例えばどんなに教えを学んだって、バーッてその心っていうのは激しく揺れ動くと。だいたいここにも最初来たばかりの人はそういうこと言うけどね。例えば、「いや、もうあの人どうしても許せない」と。「いや、それはあの、こういう考え方してみたら?」って言ったら、「いや全然そんなことはできない」と。「でもそれは頑張れば変わっていくよ」と。「いや変われない」と(笑)。
 つまり変われないように見えるんだね。変われないように見えるんだけど――これはちょっといつも言っていることの繰り返しになるけども、修行っていうのは教えと行と、行ね、修行ね。それから実生活。この三つが必要だと思うね。どういうことかというと、まず教えというのはどのように生きたらいいのかという指針を与えてくれる。実生活というのは、実際に自分の心を教えに基づいて変えていくための場になるわけだね。例えば慈愛を持ちなさいよといって、誰も周りに人がいなかったら持てない(笑)。「ああ、慈愛か」って言って何となく慈愛っぽい雰囲気で、「ああ、愛だ」とか言っていればいいんだけど、そうじゃなくて自分を苦しめる人が現れたときに、さあその人を愛せますかと。その訓練っていうのはそういった場でないとできないわけだね。で、三つ目にヨーガ行が何故必要かというと、例えば今言ったみたいに「もうあの人を愛するなんて考えられない」と。もう憎しみしかないっていう人が、愛しなさいと言って愛せるのかと。愛せるわけがないと。でも、ヨーガ行が入ると愛せるようになるんです。何故かというとさっきも言ったように、まず肉体やエネルギーや神経のコントロールから入る。だから心の壁がちょっと広がるんだね。前まではガチガチで、私の生活はこうでこうしか考えられませんって言っていた人が、気の流れが良くなったりとか、あるいは神経が落ち着いてきたりとか、あるいはエネルギーが覚醒してきたりすると、前できなかったことができるような精神状態になる。
 でもね、これも前に言ったけども、教え・修行・実生活、この三つのどれもかけても駄目だっていうのは、まず今言ったように、修行が欠けると、教えがあってやり方は分かっているんだけどできませんっていう感じになるんです。
 で、次に実生活が欠けると、教えはあって修行して、結構できそうなんだけどその場がないと。場がないから自分が鍛えられない。
 で、最後に教えがないと、――ヨーガ修行やるとみなさんの心が広がってきて結構自由度が増します。自由度が増して、さあ実生活の中で自分を鍛えようと思っても、やり方がわからない(笑)。これが教えがない場合ね。
 だから日々教えをしっかり学んで、修行しっかりして、で、日々生じてくるいろいろな実生活における課題をね、クリアしていくと。これが大事なんだね。

◎心という幻影の怪物

 で、そしてそのように心を鍛えていって――ここでいう鍛えるっていうのは強くするっていう意味じゃなくてエゴの克服です。エゴを克服して、逆に自分の心に真理の世界を作り出す。つまり今までの過去から間違った錯覚によって作り上げた世界ではなくて――錯覚によってというのはね、これもいつも言っている話だけど、例えば過去世から、まあ過去世までの話をしなくても、小さいころ赤ちゃんのときオギャーって言って(笑)、素直だったとするよ。凄く素直な赤ちゃんだったのが、例えばオギャー、ミルクが欲しいって泣いても貰えなかった場合。ちょっといろいろやってみる。「ああ、こういう場合は泣くよりもこういう態度をとった方がもらえるのかな」とか、あるいはもうちょっと成長してくると例えば誰かに意地悪をされたときに、「ああ、こういう人の前でこういう態度をすると意地悪されるからこういうふうに装ってみよう」とかね。こうやって自分に対するいろいろな演技が始まるわけだね。
 で、これを一個二個だったら分かりやすいんだけど、ちっちゃいころからいろんなことをやっていて、しかもそれプラス、経験のない情報っていうのがあります。経験のない情報っていうのは、今言ったのは経験だけども、そうじゃなくてテレビで聞いた情報。あるいは友達から聞いた情報、親から聞かされた情報。これによって自分っていう概念、我意識みたいなものを強めていくんだね。「自分はこうであってこうであってこうでなきゃいけない」――で、「こういうものはこうだ」って、どんどんどんどん強まってきてウーッとなってるのがこの心なんです。
 で、これがね、正しいセオリーによって育てられた心なら何の問題もないんだが、まったく根拠のない間違ったこの世の中のいろんな人々の言葉とか自分の経験によって積み重ねられているから、全然自分を幸せにしないような心ができあがっちゃっているんだね。
 で、これが今生だけじゃなくて何生も何生もいろんな世界生まれ変わって、できあがっちゃっている怪物みたいなのがわれわれの心なんです。
 だからこれは、この心の幻影っていうのは、我意識、「私」って意識を元に、それを骨組みにして成り立っている。だからこの我意識を潰せばいい。だから最初は我意識はなかなか潰れないから、少なくとも悪い心の部分を修正していけばいいんだけど。悪い心の部分を消していって最終的には我意識を消すと。じゃあ、心なくなっちゃいましたね、じゃなくて、逆にわれわれを幸福に導く心の状態を作り上げていくんです。

◎正しい心を作る

 でもここらへんがね、あの、修行っていうのはさ、結局大きく分けると二つある。一つは完全にただゼロになるんです。ゼロになるための修行と、そうでなくて菩薩行とかみたいにこの世で真理の王国を作り上げてく修行。で、前者の場合は今言った素晴らしい心を作るっていう作業はいらない。ただエゴを消せばいい。エゴを消すとどうなるかっていうと、ちょうどわれわれのスイッチがオフになった感じになってわれわれはこの世から消えます。まあカルマがあるうちは肉体はあるけども、肉体が消滅すればわれわれはこの世から完全に消えます。で、ニルヴァーナに入ると。
 そうじゃなくて大乗の菩薩行とか、あるいは高度なヨーガの修行においては、ここにもあるように、素晴らしい心を作り上げてくんです。これは大乗の、入菩提行論とかが一番得意とするところだけども、新しい、つまり観念――もともとねダルマとか真理の法という「ダルマ」というのは観念って意味なんだね。正しい観念なんです。正しい観念によって自分の新しい菩薩の心、あるいは神の心みたいなのをどんどん作り上げていく。つまりゼロの状態じゃないんだね。
 ゼロの状態っていうのは――っていうか本当にゼロの状態の人がいたら生きていけません(笑)。何の概念もなかったらね、この世において。そうじゃなくてこの世において生きるための概念形成が必要だと。あるいは心というものの枠組みが必要だと。それを真理のダルマ、あるいはヒンドゥー教でも仏教でもいいんだけど、正しい教えによって自分の心っていうのを作り上げていかなきゃならない。で、これがヨーガといってもいいです。
 つまり、自分を不幸にする、過去から培ってきた間違った考えによって作られたこの心を克服して、エゴというのをどんどんとぶち破っていって、新たに真理そのものみたいな心を作り出すんだね。で、これができた人にとっては、心というのは最大の友であると。最高の友だと。しかし、それができずに、つまりヨーガによって心が克服できずに過去からずっと持ってきてる心にやられっぱなしだったら、心は最大の敵だということだね(笑)。

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