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強い放棄

ラーマクリシュナ「縛られた生き物は俗世間に巻き込まれて、決して正気にはならない。彼らは実に多くの不幸や苦しみを経験し、実に多くの危険にあうのだが、それでも目が覚めないのである。
 らくだはとげのある灌木を食べるのが好きだ。それを食べれば食べるほど多量に口中から血がほとばしり出るのだが、それでもらくだはとげのある植物を食べるのをやめない。
 世俗的な性質の人は多くの悲しみと悩みを経験する。しかし、二、三日たつとそれを忘れ、再び昔の生活を始める。ある男が妻に死なれたかまたはそむかれたとしよう。見ていよ。彼はもう一度結婚する。
 今度はある母親の例をとろう。息子が亡くなり、彼女は深い悲しみにくれる。しかし数日後にはそれをすっかり忘れている。数日前には悲しみに圧倒されていたその母親が、今は化粧をして宝石を身につけるのだ。ある父親は、娘たちの結婚で破産をする。それでも彼は、年毎に子供を持ち続ける。人々は訴訟で生活を破壊されてしまう。それでも彼らは同じように法廷に行き続ける。世間には自分の子供たちを食べさせることのできない、人並みの家に住まわせてやれない人々がいる。それでも彼らは、年毎に子供を増やしている。
 また、世俗的な人はモグラをのもうとする蛇のようなものだ。蛇はモグラをのみこむこともできなければ吐き出すこともできない。縛られた魂は、この世界には実質はないということを――この世界はホッグプラムのように種子と皮しかないものだということを――悟っているかもしれないのだが、それでもなお、それを捨てて心を神の方に向けることはできないのだ。

 あるとき、私は五十歳になるケーシャブ・セーンの親類の人に会った。彼はカルタで遊んでいた。まるで彼にとって神を思うべきときはまだ来ていないかのように。

 縛られた魂にはもう一つの特徴がある。世俗的な環境から霊的な雰囲気の中に移してやると、彼は衰弱してしまうだろう。汚物の中で育つ蛆虫は、汚物の中でたいそう幸福に感じる。それは汚物の中で栄えるのだ。米びつの中に入れてやれば死ぬだろう。」

 一同は静まり返っていた。

ヴィジョイ「縛られた魂は、解脱を得るためにはどのようにならなければなりませんか」

ラーマクリシュナ「もし神のお慈悲によって強い放棄の精神を養うことができれば、自分を『女と金』への執着から解き放つことができる。
 この強い放棄とはどんなものか。
 生ぬるい放棄の精神しか持っていない者は、
『まあ、時が来れば、すべてなるようになるだろう。今は神の御名だけを唱えさせてくれ。』と言う。
 しかし強い放棄の精神を持っている者は、母親がわが子に対するように、神を求めて落ち着かない。
 強い放棄の人は、神以外の何ものも求めない。彼はこの世を深い井戸のように感じ、自分がそこでおぼれかけているかのように感じる。身内を毒蛇のように見て、彼らから飛び去りたいと思う。そして事実、彼は行ってしまうのだ。彼は決して、
『まず家族のために若干の準備をしよう。それから神のことを考えよう』
などとは思わない。内心に堅い決意をする。

(「ラーマクリシュナの福音」より)

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