平等に見る
◎平等に見る
【本文】
『自分に好意を寄せる人や友人や無関心な人を、また仲裁者や自分を憎む人や親友を、
また善人も悪人も皆平等に見る人は、まさに最上の境地に達した人といえよう。』
はい。こういった経典の読み方っていうのは、「ああ、そうか。最上の境地に達するとこうなるのか、凄いのか」――じゃなくて、これを目指せってことだね、逆に。
つまり前も言ったけど、バガヴァッド・ギーターっていうのは素晴らしい経典で、これを例えば日々毎日読んでね、それを自分の人生の日々の達成項目にしたらいいね。目標というか。
つまりここで言うならば、自分に好意を寄せる人や友人や無関心な人、仲裁者、憎む人、親友、善人、悪人、皆平等に見る人は最上の境地に達する人なんだと。そうかと。私はそのように努力しようと。つまり、「ああ、私は好き嫌いが激しいな」と。あるいは「えこひいきが激しいな」と。「そうじゃなくて、もう平等に見よう」と。「いや、今すぐは見れないけども、平等に見ることを一つの自分の修行にしよう」と。
これはね、ちょっと理論的なことは別として私の経験上で言うと、平等心っていうのは結構ポイントです(笑)。ポイントっていうのは我々の修行を進めるポイントです。悟りを得るポイントだね。人をどれだけ平等に見れるか。これは凄くわれわれのポイントになります。
ただもちろんここでいう平等っていうのはさ、勘違いしないでほしいのは、よくいわれるね、男女平等とか人権がどうとか、学校で平等に――何か最近の学校では運動会、一位を決めないとかいう学校もあるらしいね。みんな平等にするとか。そういう平等じゃないよ(笑)。カルマに応じて当然人はいろんな差がある。それは当たり前のことなんだね。それはそれでまったく構わない。インドだって昔からカースト制度があって、それはもうカルマだって言い方をしている。それをどう考えるかは別にして、そういった見た目の平等さじゃないんです。
そうじゃなくて、例えばAさんとBさんがいたとしてね、Aさんのことは好きだと。で、Bさんのことはあんまり好きじゃないと。あんまり好きじゃないというか嫌いだと。で、Aさんがある仕事を達成したとしますよ――好きなAさんがね。で、それを例えば自分は褒めると。「それ凄いね。よしこの賞を君にあげよう」。Bさんが同じ仕事を達成したとしますよ。「それはちょっと駄目だよ」と。これは駄目です。つまり、同じ事をやっているのに、好きだからこっちの方は良く見てしまうと。これは不平等。でもそうじゃなくてAさんは凄い仕事をしたと。Bさんはあんまり仕事やってないと。でも平等に見なさい、ということじゃない(笑)。
だから条件に応じて、われわれは当然物事を正確に観なきゃいけない。でもわれわれの感情が入り込むと、同じ環境に、同じ俎上にね、その両者をのっけたとしても、過去の好き嫌いとか、過去に良い思いしたとか、悪い思いしたとかによって平等に見れない。
だから平等に見なさいっていうのは――そうだな、表面上みんなを平等に扱いなさいという意味じゃない。そうじゃなくて本質的に平等に見なさいということだね。これはたぶん分かると思うけどね。
つまりもうちょっと言うと、みんなよくクラスでね、最後にやってる慈悲の瞑想みたいに無限の慈愛ね。無限の慈悲・慈愛をすべての人に向けなさいと。だから単純に平等だだけではなくて、平等に愛しなさいと。平等に愛した場合、平等にみんな幸せになってほしいなと思っても、それぞれの環境とか状況が違うから、当然こっちの考え方とか、向けるやり方とか違ってくるね。
例えば平等に愛してね、例えばそうだな、修行の後輩がいたとして、ああ、君、本当に修行頑張ってほしいよと。さあ頑張れ、って励ますと。でも例えば自分のお母さんとかが全然まだ修行とか興味ないし、教えを学ぶとかも興味なかった場合、でもそれはまだ自分がしっかり修行して、そしてできるだけ自分のステージを上げて、それによってその影響を親に返すっていうやりかたの方がいいのかもしれない。そうじゃなくて、いや僕はこの人をね、道場で励ましていると。親もそうしないと不平等だっていって親を呼んできたとしても(笑)、結果としてそれは相手にとって良くないかもしれない。
だから状況々を見て当然やることっていうのは変わってくるわけだけど、しかし土台としてね、すべての魂、すべての衆生に対して、まったくおなじ愛を向けなさいということだね。
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