帰依させていただく心構え
師や至高者の導きというのは、暗黒の深海に垂らされた釣り針のようなものだ。
その釣り針に一生懸命食らいつく作業は、魚、つまり修行者自身が行わなければいけない。
無智なる修行者は、その釣り針が真の救いだと頭ではわかっているが、逃げてしまう。
逃げてもその慈悲の釣り針は、何度も何度も魚の前に垂らされる。
しかしあまりにも逃げ続けると、もう釣り針の届かないところまで魚は行ってしまう。こうなると、またはるかな長い間、彼は救済のチャンスを得ることはできない。
師や至高者自身が、網などで無理やり修行者を救い出すことはできないのか?
それは、釣り針にかかった魚、あるいは海面近くまで自ら上がってきた魚に関しては可能だ。つまりお任せした修行者ということだ。そのような魚に対して、聖なる漁師は網を使ってすくいあげてくれる。
しかし深海で、「救ってほしい」という言葉とは裏腹に逃げまくっている魚を、誰も救うことはできない。
よって修行、あるいは救済されるための第一条件は、自分は自分自身のことも、修行のことも何も知らない無智であるという智に基づいた徹底的な謙虚さ、慙愧の念であり、また渇仰心である。
自分の観念を一切捨て、身口意において完全にお任せするという当たり前の態度である。
一切を犠牲にしても真理を懇願し、奉仕させていただくことを懇願し、帰依させていただくことを懇願する、当たり前の態度である。
古の修行者の物語などでは、教えを求めて、断られても断られても何度も師のもとへ行く弟子の話や、ただ一つの教えのために命さえ捨てる話などが多くある。
しかし現代ではまるで逆だ。まるで師や神に頼まれて、仕方なく修行しているような心構えの修行者が多い。
あるいは、まるで自分のことも修行のことも自分が一番よく知っているかのように考え、真摯な渇仰心のない傲慢な修行者も多い。
その心構えを変えない限り、自分の観念内のかたちだけの修行や善行を何年繰り返しても無駄だ。彼のいる暗黒から、誰も彼を救い出すことはできない。
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