実写ドラマ・マハーバーラタの最終回にあたって――大戦争、そしてカルナについて
ヨーガスクール・カイラスのAMRITAチャンネルで好評だった「実写ドラマ・マハーバーラタ」がついに最終回を迎えました。
https://www.entertainment.yoga-kailas.com/mahabharata
その前に連載していた「実写ドラマ・ラーマーヤナ」に比べると、いろいろツッコミどころがある作品ではありましたが(笑)、全体的には良い作品でした。
「実写ドラマ・ラーマーヤナ」は、脚本、配役、役者の演技、演出等、すべてが素晴らしかった。おそらくラーマーヤナが好きで、ラーマーヤナのポイントをわかっている人たちが作ったという感じ。そしてそれ以上に、神の祝福が降りた神作という感じでした。
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それに比べると「実写ドラマ・マハーバーラタ」のほうは、脚本にいろいろとよけいな付け加えが多すぎる感じで残念でした。また、原作の素晴らしいシーンがカットされていたり改変されていたり。
たとえば、いい人だけれど子煩悩と権力欲によって翻弄されるドリタラーシュトラ王の、唯一の素晴らしい見せ場として、こんなシーンがあります。それは、生まれつき盲目だったドリタラーシュトラに、クリシュナが祝福を与え、目が見えるようにしてあげるのですが、ドリタラーシュトラはそこで初めてクリシュナのお姿を見て、その神々しさに感動した後、クリシュナに対して、「どうかわたしをもう一度盲目に戻してください。あなたのお姿を見た今、もう、他のものは見たくありません」と言うのです。そこでクリシュナはドリタラーシュトラを再び盲目に戻します。
しかしドラマではこの感動的なシーンは少し改変されてしまい、ドリタラーシュトラは最後の方までクリシュナに少し敵意を抱いている感じに表現されていました。その辺は残念でしたね。
またこの実写ドラマの最終回は、ビーシュマの死をもって終わりました。マハーバーラタはパーンドゥ兄弟が主人公ですが、ビーシュマは裏の主人公といってもいい存在なので、ビーシュマの死をもって終わるというのも悪くはなく、実際にビーシュマの死のシーンなどは感動的だったのですが、やはり挿入されるナレーションや歌において、ちょっとよけいなというか、個人的に納得できない言葉がいろいろありました笑
たとえばマハーバーラタの大戦争を「悪」とし、二度と繰り返してはならない、というようなステレオタイプな表現がされていましたが、あの戦争はクリシュナの意思ですので、普通の、人間のエゴでなされる戦争と同一視すべきではありません。
まあ現代の平和主義ムードに迎合したのかもしれませんが……こういう神聖な物語に、そういうものは持ち込まないでほしかったですね。
原作のマハーバーラタでは、ビーシュマの死後もしばらく物語が続き、最後の方では、ドゥルヨーダナをはじめとした「悪」の軍も、パーンドゥの「正義」の軍も、実際は神の意思のリーラーにおける役割を果たしただけであり、その皆がすべてが終わって天で共に安らぐという、善悪の観念すら超越したかたちで終わるのですが、この実写ドラマでは、現代的な勧善懲悪的な雰囲気のまま終わってしまい、それもこの壮大な物語の超越性を表現しきれていない感じで残念でした。
また、挿入歌でカルナを「悪に落ちた」と表現していましたが、それもどうかと思います。
何度か書いていますが、わたしはカルナがけっこう好きです(笑)。
何度か書いているので簡潔に書きますが、カルナは本当はパーンドゥ兄弟の長男であり、本当なら正義のパーンドゥ軍につき、そして果てはユディシュティラに代わって大王になる資格のある男でした。
しかしカルナは、その自分の出生の秘密を知り、クリシュナや母クンティーにパーンドゥ軍につくことを勧められた後も、ドゥルヨーダナのそばを離れることはありませんでした。
「母上様、あなたがおっしゃることは、ダルマではございません。もしわたしが義務の道からそれたならば、わたしは戦場で受けるいかなる重傷よりも、わたし自身を傷つけることになりましょう。
今わたしがパーンドゥ側に走ったら、臆病風に吹かれたのだと、世間の人々に笑われることでしょう。すでにわたしはクル族の食客となり、家中第一の勇士としてことごとく信用され、数え切れぬ恩恵と親切を受けてまいりました。それなのに今になってあなたはわたしに、恩義ある人に背いてパーンドゥ側につけとおっしゃる。
ドゥルヨーダナたちはわたしのことを、今回の戦争という大洪水を乗り切るための箱舟として、大変信用してくれています。それにわたし自身が彼らにけしかけたのですよ、戦争をしろと。今になって彼らを見捨てられますか? それでは卑劣な裏切り者、見下げた忘恩の徒ということになりませんか?
お母さん、わたしはドゥルヨーダナたちに借りを返さなければならないのです。ですからわたしはあなたの息子たちと、全力を挙げて戦います。どうかお許しください。」
また、何かとカルナと敵対していたビーシュマも、アルジュナの矢に倒れた後、やってきたカルナに、パーンドゥ側につくことを勧めます。それに対してカルナはこう答えます。
「じい様。わたしは自分がクンティー妃の子であることを知っておりました。しかしわたしはドゥルヨーダナの禄を食みましたので、彼に対して忠実でなければなりません。だから今ここでパーンドゥの方へ行くことなど、わたしにはできません。わたしに寄せられたドゥルヨーダナの愛と信頼にこたえ、自分の命を賭けてその義理をお返しすることをお許しください。
言葉においても行動においても、わたしはずいぶん間違いを犯しました。なにとぞ、すべてを水に流してお許しくださり、ドゥルヨーダナのために戦うわたしを祝福してください。」
これを聞いてビーシュマも、「自分の信じる道を行け」と祝福を与えます。
カルナが、悪人のドゥルヨーダナのそばを離れなかったのは、彼がダークサイドに落ちていたからではありません(笑)。
カルナがまだ何者なのか、誰も、カルナ自身でさえ分かっておらず、ただの身分の低い御者の息子だと思われていたとき、そのように身分の低いカルナがアルジュナに挑戦しようとするのをパーンドゥ兄弟をはじめとして皆が笑って馬鹿にしたとき、ドゥルヨーダナだけが、カルナを受け入れ、カルナの武士道精神や勇猛さをほめたたえ、一つの国まで与えてカルナを一国の王にしたのです。ドゥルヨーダナは悪人ではありますが実はこういういいところも結構あります(笑)。
皆が自分を馬鹿にしていたときに、身分を問わず、何も聞かずにただ一人受け入れてくれたドゥルヨーダナ。それを意気に感じ、恩義を感じたカルナは、一生、ドゥルヨーダナのために尽くそうと考えるのです。その後、実は自分がパーンドゥの長兄であったと知った後も、その思いが揺れることはありませんでした。パーンドゥに寝返れば、勝利と王権と社会的正義が手に入ったでしょうが、カルナはそれらよりも自分の中の誠実さを第一と考え、それを決して捨てなかったのです。
また、この戦争が終盤を迎え、ドゥルヨーダナの軍が敗戦濃厚となってきたとき、ドゥルヨーダナの母であるガンダーリーはカルナに、「どうかあの子を見捨てないでください」と頼みます。そこでカルナは、「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」と答えます。
このシーンは実写ドラマでも、役者の表情等、とても良いシーンでした。
この「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」というカルナの言葉は、単に「戦争に負けそうでも、ドゥルヨーダナのもとを離れない」という意味にもとれますが、わたしはそれだけではなく、もっと深い意味があったと思います。
ドゥルヨーダナはもともと悪人的性質がありましたが、そばにいた叔父のシャクニや弟のドゥッシャーサナなどの影響によって、よりその悪い性質が増していきました。
しかしドゥルヨーダナの周りには逆に、ビーシュマ、ヴィドラ、ドローナ、クリパといった、ダルマを知り、正しい助言をしてくれる賢者たちもいました。しかし彼らが何を言ってもドゥルヨーダナは耳を貸さず、悪の道を突き進んでいきました。
終盤になればなるほど、この「賢者」たちは、ドゥルヨーダナのことをあきらめる感じになっていきます。この悪しき王子を改心させることは無理だと。そういう感じで賢者たちは嘆き続けます。
しかしただ一人、カルナだけは、それをあきらめていなかったのではないでしょうか。
カルナはドゥルヨーダナの軍についたので悪役のようにとらえられることもありますが、もともとは太陽神の子であり、公明正大な、ダルマに従うことを信条とする性格です。ドゥルヨーダナがシャクニなどの影響により卑怯な作戦や陰険な手段を取ろうとするとき、カルナはことごとく反対し、ドゥルヨーダナの目を覚まさせようとします。
つまりカルナの「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」という言葉の真義は、「たとえ皆があきらめようと、ドゥルヨーダナを悪の道から立ち直らさせることをあきらめない」という意味だったのではないかと思うのです。恩義のあるドゥルヨーダナを、必ず悪の道から救い出すぞ、と。
王権や本当の家族との幸せや社会的正義の側に立つというメリットのすべてを捨てて、破滅がわかっていながら、ドゥルヨーダナへの恩返し、誠実さを貫いたカルナ。
誰もがあきらめたドゥルヨーダナを悪の道から救い出すことを、自分の身の破滅と引き換えにしても、決してあきらめなかったカルナ。
このような生き方を貫いたカルナは、決して「悪の道に落ちた」「あのようになってはならない」などと表面的に批判されるべきではなく、むしろ我々も個々に与えられた運命の中で「カルナのようにあらなければならない」と言ってもいいくらいの、マハーバーラタの中でも特筆すべき素晴らしい人物ではなかったかと思うのです。