四つの真理
お釈迦様の原始仏教の最も根本となる教え、それは四諦(四つの真理)です。
仏教用語というのはイメージ的にすごく難しい感じがするんだけど、実際はそんなに難しくはありません。理解は難しくないんだけど、実践が難しいんだね。なぜなら仏教やヨーガの教えというのは、どちらかというと、現象の客観的分析というよりも、実質的に悟りを得るために必要な教えのほうに、もともと重点が置かれているからです。
もちろん、アビダンマ等の形で、後に仏教でも、客観的分析の教えがどんどん体系化されていった歴史がありますが、それは時間の無駄であったと、私は思います。そんなことやる前に、修行して悟れと(笑)。
まあそれはいいとして、今日はこの四諦の話です。
四諦を実践論的に説明すると、それは知・断・修・証のプロセスであるといえます。
①知
何を知るのか? これが第一の真理、「苦しみ」ですね。つまりまず、「この世は苦しみである」という事実を、しっかりと理解しなければならないわけです。
たとえばわかりやすい話としては、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦という三つの苦しみがあります(すごい! 一発変換した(笑)!)。
愛別離苦・・・愛着している対象から引き離される苦しみ
怨憎会苦・・・嫌悪している対象と接触する苦しみ
求不得苦・・・欲求しているものを得られない苦しみ
まあ、これだけではないのですが、さまざまな分析により、まず、「この世は苦である」という現世否定の見解を理解しなければなりません。
もちろん、大乗仏教以降には、逆にこの世を全肯定する教えも登場しますが、それはちょっとレベルの違う話です。つまり肯定の意味がわからない者は、まず否定しなければならないのです。
この世に執着したレベルでこの世を肯定してはいけないのです。この世から心が引き離されたとき、初めてこの世を肯定するという意味がわかります。
さて、仏教では人間存在を五蘊として定義しますが、まあ簡単に言えば、肉体とか感覚とか心とかですね。それらを分析する。そうすると、全部苦しみじゃないかと。肉体なんて腫れ物みたいなもので、すぐに苦痛を与えてくれる。感覚は、日本人は徳があるから、快楽優位の中で育っているから麻痺しちゃっているね。これはちょうど、天界の住人が、毎日が楽しいがゆえに、輪廻の苦しみを理解できず、そのために修行せず、カルマが悪くなり、地獄へ落ちるというのと同じですね。
正確にこの我々の置かれた状況を見るならば、苦しみである。日本はこれだけ経済的に成長し、何でも食えるし、快楽に満ちた神のような国になったけど、なぜか毎年、自殺者は増えている。何万人も自殺している。あるいは不意に、さまざまな不運なことが降りかかったりする。あるいは、精神を病んで病院に行ったり薬を飲む人も増大している。おかしな事件も増え続けている。
このように、自分と他人の状況を正確に分析し、この生存の世界そのものが苦しみに満ちているということをまず理解しなければならない。
じゃあ自殺すればいいのか? いや、輪廻転生がある以上、自殺してもまた同じ苦しみの世界が待っている。もちろん、老衰で死んでも、また同じ苦しみの世界に生まれ変わる。
これは恐ろしいことだと思わないか!? この世は苦しみである。まあ、ここまでならいい。そしてさらに、それがずっと続くというんだ! 死んでもまた生まれ変わり、またその苦しみの世界が続くんだ、ずっと!--解脱しない限りね。
だからまずこの認識をしっかりと行ない、今、この生において、仏教とかヨーガとか、そういう解脱可能な道に足を踏み入れていることを最大のチャンスと考え、修行に向かわなければならないわけだね。
②断
さて苦しみの真理を理解したら、今度はその苦しみの原因を断たなければならない。
お釈迦様の定義によると、苦しみの原因は「無明」と「渇愛」である。
無明とは文字通り光が無い、智慧の光がないということだね。智慧が無いから真実がわからない。逆に言うと、智慧ではなくて、間違った観念に覆われているから、苦しみを作り出すような精神状態に置かれる。だからこの間違った観念(無明)を断てということだね。
もう一つは渇愛。智慧云々とは別に、もう習性として我々の心は、あらゆるものに縛り付けられてしまっている。ドラッグ中毒のようなものだ。本当は苦しみをもたらす類のさまざまなものに、縛り付けられている。その心の鎖を断てということだね。
③修
苦しみを理解し、その原因を断つ方向に向かったなら、今度はその具体的方法が提示される。ここで出てくるのが「八正道」だね。すなわち、
正見・・・四諦によって、世の中を正しく見る。つまり、この世が苦しみに満ちており、悟りと解脱によってのみ苦しみを破壊できるんだということをしっかりと認識する。
正思・・・日々、正しい思いを持つ。
正語・・・日々、正しい言葉を語る。
正業・・・日々、正しい行ないをする。
正命・・・人生全体を全力で正しく生きる。
正進・・・上記のことを全力で努力する。
正念・・・日々、正しい念を持つ。
正定・・・正しいサマーディ(瞑想の究極状態)に入る。
八正道のうち最初の七つは、この現世の中で正しく生きることによって、カルマを浄化するプロセスといっていいでしょう。そしてカルマが浄化され、準備オッケーとなった段階で、正しいサマーディに入り、解脱と悟りを得るわけですね。
さて、今度はもうちょっと具体的に、八正道でやるべきことを並べてみましょうか。
正見・・・四諦によってこの世を見る。
正思・・・貪りの思いを持たず、人に与える思いを持つ。
怒りの思いを持たず、人に慈愛を持つ。
邪見解(カルマの法則はないとか、輪廻はない、死んだら終わりだなどという見解)を持たず、正確に自己と世界を見る。正確に自己と世界を見る能力が無いのなら、仏陀や聖者のおっしゃったことを信じる。
正語・・・うそをつかず、真理を語る。
意味の無い冗談などを言わず、意味のある真理を語る。
悪口を言わず、優しい言葉を語る。
両舌で人に不和をもたらす言葉を語らず、人々に親愛をもたらす言葉を語る。
正業・・・殺生・暴力などで他者を傷つけることなく、慈愛を持って他者に接する。
ものを盗むことなく、逆に他者に与える。
邪な性的行為にふけらず、性欲を超えた真愛によって他者と接する。
正命・・・一生を通じて、すべてを捨て、仏陀への道を歩む。
正進・・・現在、自分の中で断てる悪は、妥協せずに徹底的に今この瞬間にすべて断つ。
現在、自分が少しでもできる修行や善は、妥協せずにすべて徹底的に行なう。
現在なかなか達成できないことに対しても、全力で努力し続ける。
正念・・・日々、肉体・感覚・心といった自分自身の真相、そして世界の真相を学び、観察し、理解し、繰り返し心に刻み続ける。
正定・・・上記の準備が整った段階で、サマーディに入る。上記のプロセスが正しくできていれば、瞑想者はいきなり色界の喜楽という高度なすばらしい歓喜の瞑想に入る。さらにそこから瞑想を深めていき、最後には解脱・悟りを得る。
④証
さて、最後の証とは何でしょうか。
八正道を私は行なっていますよ、という人がいたとしても、実際にそれによって何かが現されなければ意味がありません。
たとえばプロ野球選手になりたくて、毎日6時間練習していますよ、という人がいたとしても、それが自己満足の練習で、何の効果も無かったら、その人は野球はうまくならないし、プロ野球選手にもなれない。その練習が実質があるものであることの証明として、その人は実際に野球がうまくならなければならないし、あるいは甲子園に行くとか、ドラフト指名されるとかの結果が生じなければならない。
まあ野球とか受験とかの場合は競争の世界なのでちょっと違いますが、解脱や悟りには競争相手はいません(笑)。いるとしたら自分の中の魔だね、戦う相手というのは。勘違いしちゃだめだよ。会社の嫌な上司や、小言を言ってくる家族や、うるさい先輩や友人が戦う相手じゃないよ(笑)。
さて、八正道という、この現世におけるトレーニング、そしてその集大成としての正定によって、何があらわれなければならないのか? それが悟りと解脱なわけですね。
もっと正確に言うと、ヴィディヤー(明)とヴィムッティ(解脱)であると、経典には記されています。
つまり観念を超え、すべてを正確に見る明という悟り。
そしてすべての渇愛の習性から解き放たれ、解脱し、自由になった状態。
これが修行の目指すところです。
この状態で生きるなら、話が戻りますが、初めて、この世は肯定すべきものと変わるでしょう。
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