勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第4回 「バクティ」④(10)
聖者というのは、例えば皆さんとまだ師弟の縁はなかったとしても、この世に例えば聖者が現われるっていうのは、そういう要素なんです。そういう要素というのは、いつもの言葉で言うとヴィディヤーマーヤー、つまり無明のマーヤーじゃなくて明智の、つまり智慧のマーヤー。この世は無明の世界だけども、そこに智慧のエッセンスが夢の中に入り込んでます。これが皆さんの夢に現われちゃっているのが、俗に言う聖者です(笑)。あるいはいつも言うように、聖者だけじゃないよ。例えばこういう本もそうです。これ、ヴィディヤーマーヤーですからね。ほとんどすべて――あと例えばね、(お供物を指して)これもヴィディヤーマーヤーです。なぜかと言うとお供物だから。でもこれが例えば文化堂とかにあるときは(笑)、あるいはダイエーとかにあるときはアヴィディヤーマーヤーです。だってこれを「はい皆さん、おいしいよおいしいよ、さあ食物の喜びは素晴らしいよ。さあこれでみんな餓鬼の世界へ落ちろ」っていう無明のマーヤー(笑)。
(一同笑)
皆さんがこれを供養のためにって手にとって祭壇に上げてプラサードとして下りて来た瞬間に、これはヴィディヤーマーヤーに変わるんです。智慧のマーヤーに変わるんだね。
つまりこの世界っていうのはまさにほとんど無明のマーヤーなんだけど、神がエッセンスを与えてくれたエッセンスが、夢の中でグーンとちょっとしたヴィディヤーマーヤーとして現われているんだね(笑)。これはだからこの本もそうです。この本もさっきからの言い方で言うと、この本はうちでワードで作って印刷して印刷機で閉じてちょっとこう製本したことによって出現したものじゃない。そういう考えじゃないんだね。もともと神がブワーッとこう智慧の光を与えてくれた、それが例えば皆さんの前にこの概念の世界、文字の世界では文字というのはとても有効であるから、文字というかたちで智慧がボンッと現実化した。で、これは本当に智慧の目で見たらですよ、智慧の目で見たら実はポンッと現われているんです。実はですよ、実はY君だったらY君の前にこれがポンッと現われているんです。でもこんなことが起きたら変だから、この世でね(笑)。神がY君に慈愛を垂れたときに「(本が突然現われて)おお!」って、これは変でしょ(笑)。だから、あったことになるんです。変な話だけどね。変な話だけどもしY君のこの『至高のバクティ』の本が今日必要だってなったら――これ何年だっけ? 二○○八年にこれができていたことになるんです。前から言っているけど、ドラえもんのもしもボックスみたいなもんです。もしもボックスで正しいよね? わたし、どこでもドアと言っちゃったことがある(笑)。
(一同笑)
全然違うんだけど(笑)。もしもボックスね。あのもしもボックスっていうか藤子不二雄の発想って素晴らしいよね。まあそれはちょっと今日は置いとくけど(笑)。
(一同笑)
わたし昔、マンガすごく好きだったんだけど。中学生とか高校生のころとかね。ドラえもんも好きだった。藤子不二雄の「F」の方ね(笑)。「F」の方の藤子不二雄さんの発想力はとても素晴らしい。あの人いろんな作品書いているけども、ちょっとなんていうかな、さっき言ったマトリックスじゃないけど、ちょっとこの世の現実をぶっ壊すような話が多くてね。面白かったけど……まあそれはいいとして(笑)。もしもボックスのあの素晴らしさは、つまりあれって例えば「もしもこういう世界があったら」――まあ例えばあのマンガで、ちょっと忘れちゃったけど表現されていたのが、のび太があやとりが天才的なんだよね。でもそんなの誰も認めれくれないと。だからもしもボックスで「もしもあやとりがすごく価値がある世界があったら!」って言うわけだね。そうするとつまりその、その瞬間からいきなりみんながあやとりに興味を持ち出して、あやとり協会とかできるんじゃないんですよ。あったことになるんです。ふっと街に出ると、あやとり協会があると。で、この協会は例えば昭和何年にできているとかになっているんです。歴史が変わってるっていうか。もともとあったことになっていると。これがだから、現実が夢みたいなもんですよと。夢ってそうでしょ? 夢ってさ、なんか登場人物がパッと出たとすると、いきなり出たやつなのに(笑)、もともといたような感じになる。そういう強引なつじつま合わせがあるんですね。
この世は全部そうだと考えるんです。皆さんが――だからアヴィディヤーもそうですよ。つまり無明のマーヤーもそうなんです。皆さんを苦しめるために現われるいろいろな煩悩や、いろんなけがれの表現が出てくる。それも実はいなかったのかもしれない。なんて言うかな……でもこういうことばっかり考えているとちょっと皆さん現実世界で生き難くなってくるかもしれないけど、でもそうなんです。
例えば皆さんのカルマを落とすためにね、例えば皆さんが子供のころに、皆さんの地獄のカルマを落とすためにガキ大将みたいな暴力的な友達が現われるかもしれない。でもこいつ、いなかったかもしれないんです、本当は。「お前いた?」みたいな(笑)。でも実際にそいつは、もし経歴を調べたら確かに同じ街のここで生まれて、今まで注目していなかったけども実際はこういう人生を歩んできたと。でもそれはあったことになっているだけの話で。
ちょっと長くなっちゃったけどね(笑)。だからそういう感じでアヴィディヤーマーヤー、つまり無明でできている世界に、ヴィディヤーマーヤー――神の愛、祝福によってわれわれの中に光が下りて来たときに、それがいろんなかたちで現実化する。それが聖なる本であったり、聖なる修行であったり、あるいは聖者方であったりする。その最もメインとなるもの、最も――まあ言ってみれば神自身が下りていらっしゃって、直接皆さんを導こうとする感じで夢の中に現われた存在が、皆さんの師なんだということですね。
はい、だからこれは何度も言うけども、これはもちろん皆さんこの考えを受け入れるかどうかは自由です。受け入れなくても構わない。一般的な聖者にしろ、師にしろ、「いや、単に努力して高みにのぼった存在ですよね」っていう考えでも全然構わないよ。でもバクティの最高の考えはこういう考えなんだっていうことですね。