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勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(5)

 で、ちょっと時間だいぶ過ぎちゃったんで、もうはしょって言うけども、ほかのヨーガももちろん同じですね。ほかのヨーガも例えば、カルマヨーガで言ったら、カルマヨーガっていうのは実際にはバクティヨーガの実行面みたいなところがあるんで、これは切っても切れないものだね。
 クンダリニーヨーガも同じで、クンダリニーヨーガっていうのは、皆さんには何度も言っているけども、バクティヨーガなしにはまず不可能です。クンダリニーヨーガっていうのは、一応大義名分上はね、例えば仙道とかもそうですけども、自分の中の生命エネルギーを覚醒させて、それを循環させて、つまり甘露を落として、この循環によって物理的にナーディを開き、物理的に、例えば中央の気道に意識とエネルギーを流入させて、悟りを得るんだと言っている。でもこれ、実は自力だけでやるのは不可能です。必ず祝福のエネルギーが必要なんだね。クンダリニーの覚醒っていうのは、実際はそんな難しくはない。その先が難しいです。その先に、実際に上から甘露が降りてくる、あるいはわれわれの智性を覚醒させるだけの超エネルギーがわれわれの中に生じるには、自分が今持っているエネルギーだけじゃ駄目なんです。ちゃんと上からもらわないと駄目なんだね。祝福があって、聖なる神のエネルギーが入ってきて、で、それが循環するんだね。だから自力だけでは無駄だと。
 だから何度も言っているけど、ラーマクリシュナもタントラの修行いっぱいやったから、ラーマクリシュナの話にもクンダリニー的な話っていっぱい出てくるんですね。「それはバクティヨーガをやることによってこうなる」って言ってるわけだけど。逆に言うとバクティヨーガによって生じるさまざまなエクスタシー、あるいはチャクラが開いていろんな経験をする経験、これをもうちょっと自力でできないかっていう感じでちょっとやってるのがクンダリニーヨーガって考えてください。だからクンダリニーヨーガ単体ではちょっと難しいんだね、実際は。クンダリニーヨーガの果てに、本当のバクティヨーガの、ちょっと手助けになるぐらいの話です。
 だからどのヨーガをたどったとしても、究極的にはバクティヨーガに結びつきますよと。だったら最初からバクティでいくのが一番早いんだね。でももちろん何度も言うように、バクティヨーガを本当に理解できる人っていうのは、いろんな段階を踏み越えた人でなきゃいけない。だからそういう意味では皆さんが、例えばバクティヨーガの教えを学べ、そして少しだったとしても理解ができ、それが素晴らしいと思えるってのは、とても素晴らしいことなんだね。これはとても、皆さんにとっての宝物です。だから大事した方がいい。なぜかと言うとこれは、最もストレートな道だから。
 もちろんいつも言っているけども、だからといって多分百パーセントバクティでいけるのも難しいと思うので、だから現代的には、当然トータル的なヨーガがいいと思うね。ここでやっているように、しっかりとヨーガ行的な、つまりクンダリニー的な、物理的な補助も行ない、そしてジュニャーナヨーガ的な教えを学んで、論理的に考えるということを行ない、あるいは仏教的な、つまり念正智的なね、日々の生活を教えによってしっかりと整えていくっていうことも行ない、そしてラージャヨーガ的な現世放棄。現世放棄から生じる、集中力を鍛えるとっていうことを行ない……ということをいろいろ固めると。しかし、「じゃあ中心に何を持っていきますか?」といった場合、やっぱりバクティが一番いい。だからこれを理解できる人は、バクティあるいは、まあ、結局いつも同じ話になっちゃうんだけど、その別パターンとしての菩薩行ね。うーん……まあ結局、カイラスになってくると(笑)。

(一同笑)

 カイラスの薦めている、バクティヨーガと菩薩行が、大きな二つの柱だと。で、それを、補助として固めるために、クンダリニーヨーガとか、あるいはさまざまな教えを学びましょうっていう感じが一番いいかなって感じがするね。
 はい、じゃあちょっとまとめますが――よって「バクティヨーガはカルマヨーガ、ジュニャーナヨーガ、ラージャヨーガなどよりも優れている」と。「なぜなら、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから」っていう話になるわけですね。
 はい、だいぶ今日は時間過ぎちゃったんでこれで終わりにして、じゃあまた質問があったら質問聞いて終わりにしましょう。

 はい。さっきも言いましたが……ちょっと復習するとね、バクティヨーガの最高の悟り――ヴィジュニャーナというわけですけども、これはつまり「一切は幻影である」でもなく、「一切は神である」と。つまりわれわれが認識してる、あるいは認識していないもの含めて、「この世界はただ神である」と。で、これはもちろん最高の悟りによって得る、本当の悟りにまでいってなくても、われわれがそれを日々、そのように思う訓練をするっていうかな、これはこれでとても利益がある。だからそれは皆さんやったらいいね。
 もちろんそうじゃなくてジュニャーナ的な、「いや、幻影だ」って見る方がしっくりくるっていう人はそれでも構わないよ。うん。でもそうじゃなくて一番いいのは「一切は神だ」と。「あの人もこの人も、あるいは物質的なものも含めて全部神だ」と。あるいは現象もそうです。「現象も含めて神だ」と。「悪いことも良いこともすべて神だ」と。
 これもヴィヴェーカーナンダの言葉にあったけども、「そのような見方ができる人は、例えさまざまな――一般に言うところの不運なことや障害が来たとしても、それも神と見て喜べる」と。「神のお遊戯、つまり神がわたしと遊んでくれているんだっていう気持ちになれる」と。
 つまりね、これは誰かの言葉にあったけども、われわれはそのエゴに固執してしまうから、ちょっと悪い意味で、シリアスになり過ぎちゃうんだね。「おれはなんて!」みたいな感じでね(笑)、「なんてことになってしまったんだ! ウワーッ」……これはエゴです(笑)。じゃなくて、全部神のお遊びだと思っていれば――つまりもうイメージでいいですよ。イメージが得意な人はイメージしてください。つまり何かガーンッとすごいショックなことが起きたとしたら、クリシュナと自分が手を繋いでパーッてこう回っているイメージをしたらいい。「ああ、面白い遊びだね」と(笑)。自分の好きな神と自分が、「ああ、そうだ」と。「このようにして遊んでくれているんだ」と。それはいろんな遊びがあるよね。神が「あ! なんか今、後ろから目隠ししたんだな」と。あるいは「今、わーってびっくりさせたんだな」と。いろんなイメージでいいので、「神と今、わたしは遊んでもらってるんだ」っていう感覚になれるんだね、これを信じてたらね。これがその――まあ言ってみれば「ハリ・オーム・タット・サット」ね。「主よ、あなただけが実在です」と。
 もう一回言うよ。「あなただけが実在です」って意味は、「すべて幻であなただけが……」――これでもいいんですけども、最高の意味としては「いや、全部神です」と。この真実を歌ったのが「願い」っていう歌だね。はい、じゃあ最後に「願い」をいってみましょうか(笑)。

(一同笑)

 最後に「願い」を一曲歌って、今日は終わりましょう。

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