勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(7)
(A)はい。あともう一点あるんですけど。経行とかしているときに、「思考を止めなさい」とか書いてあって。あんまり学んだ教えとかについてダラダラ考えるよりも、マントラとか唱えていた方がいいんですか?
思考を止める?
(A)何か『サーダナーの指針の花輪』か何かに「思考を止めなさい」とか書いてあったような気がしたんですけど……。
ああ、思考をね。それはだからさ、じゃあいい機会なので簡単に言うと、もちろんここで言う思考っていうのは……そうだな、Aさんはやっぱり止めた方がいいよね(笑)。
(A)えー(笑)。
つまり、心の中でワサワサワサワサ……とね、いろんなものが展開すると。心の中のおしゃべりであるとか、心の中でいろんなくだらない概念がいろいろとこう、動き出すと。これは止めなきゃいけないね。
じゃなくて、教えに関することはオッケーです。逆に言うとね。
その前の段階で言うよ。その前の段階で――じゃあこのワサワサと、心がいろんなくらだない情報が溢れかえる人っていうのは、この人が例えば教えを考えようと思ったらこれは――ちょっとヨーガ的に言っちゃいますね。ヨーガ的に言うと、今言った心がワサワサっていうのは、これはヨーガ的に言うと、マナスっていう世界。マナスっていうのは、表層意識っていうか、われわれが普段放っておいてもいろいろ考えちゃう意識ね。じゃなくてブッディ――つまり理性というのがあって。この理性で教えを考えなきゃいけない。だからマナスは止めろと。理性を働かせる。理性によって教えを思考する。これは逆に、しなきゃいけないですね。で、それによって、心の中で教えのその――まあ教えについて思索してもいいし、あるいはただ教えの言葉をなぞるでもいいし。で、それをやってて、で、マナスが教えで覆われたら最高です。こうなったら、止める必要はない。
あの、止めるっていう方向性は、『サーダナの指針の花輪』のあの一連の詩っていうのはね、あれはね、シヴァーナンダさんっていう人が、いろんなヨーガの体系をギューッて凝縮して、細かい詩を連ねて表現しているので、一つの例えば詩をとった場合、あるタイプのヨーガの教えなんだけど、でもこっちのヨーガにとってはちょっと違ったこと言っている場合もあるんだね。だからそれは柔軟に考えなきゃいけないんだけど。
例えばもう一回言うと、いつも言っている『ヨーガスートラ』の有名な言葉で言うと、ヨーガとは、チッタヴリッティっていうわけですけど、心の動きを止めることであると。つまり完全に停止系なんですね。「止めろ、止めろ、止めろ」と。つまり止めることによってニルヴァーナに、あるいは真我にアクセスすると。
じゃなくて、われわれがやろうとしているのは、もちろん悪いものは止めなきゃいけないんだけど、われわれは菩薩道、またはこの世において自己を成熟させ、神の道具となっていく道を選ぶわけだから、止めるだけじゃ駄目なんだね。つまり悪いものがあって――つまりいつも言うように、悪い電化製品があってね、それはコンセント切りゃあ解決すると。じゃなくて、修理しろって話なんだね(笑)。コンセント切ることだけに、ことをやってもしょうがないと。だって入れたらまたおかしいわけだから(笑)。修理しろと(笑)。で、この修理する作業が、今言った、止めるんではなくて、思索その他を繰り返して、そもそも例えばウニャウニャしている世界をきれいにする。で、きれいなものっていうか、その神聖なものがウニャウニャするんだったらいいじゃないですか。だって、ふと考えると「クリシュナ、ラーマ、クリシュナ、ラーマ……」と出てくる(笑)。心に浮かぶワードが、経典の言葉しか浮かばないと。「経典の言葉で頭がなんかいつもいっぱいなんです!」……いいじゃないかと(笑)。最高じゃないですかと。「何か目をつぶると無になれない」と。「ラーマとクリシュナとブッダがいっぱい出てきて無になれないんです!」……最高じゃないですか(笑)。
(一同笑)
そんな、無になる必要ないですよ(笑)。それが目指すべきところなんだね。うん。
だからその――われわれは、もう一回言うと、だからここでは繰り返し言っているよね。念正智とかもそうだけど、よくテーラヴァーダとかで言う、単純に「歩いてる、歩いている」「食べてる、食べてる」――こんなことやってもしょうがない。そうじゃなくて、いかに心を神から外さないか、いかに心を教えから外さないか。どっちかというと能動的なのが必要なんですね。で、もちろんマントラでもいいですよ。マントラもいいけども、マントラっていうのは一つの方法ですね。マントラによって悪い心を止めると同時に、音のヴァイブレーションを心に満たすと。これはオッケーですね。そうじゃなくて、もちろん教えについていろいろ考えるでも構わない。でもその場合は、もう一回言うけど、それがくだらない、あるいは悪しき感情とか考えに転換しないようにしなきゃいけないね。その神聖な教えだけでいけるんだったら、それはそれでもう素晴らしい。それはどんどんやったらいいと思うね。教えに関する、あるいは聖なるものに関するイメージや思索に関してね。
で、あとはエネルギーの流れとか、あとはもちろん祝福とかによって、止まるときは止まります。わたしも経験あるけども、例えば一生懸命止めようとしても、心の動きが止まらないと。こういうときは、止めようっていうよりは――まあ止めようとしてもいいんだけども、それよりは今言ったように、より正しいデータを入れてあげると。あるいは心が何か考えたがるときは、どうでもいい世俗のことは考えないで、真理のことだけを考えると。これをひたすら繰り返せばいい。で、止まるときは止まるんです、本当に。別に考えてなくても「あれ!?」って感じでグーッと心が止まったりする。あるいは修行の結果として、エネルギーがいい状態になって、グーッと寂静の状態になる。このときは別に無理に考える必要はないよ。心がグーッと止まって、いい状態になっていると。このときにわざわざ、「ん、入菩提行論の中で……」とか考える必要はない。止まったときはそれに心を合わせればいいわけですけど。そうじゃなくて、普段は悪しき心の動きに対抗するような感じで、どんどんいろんなことを唱えたり、考えたりっていうのはやるべきだと思うね。いいですか?
(A)はい。ありがとうございます。
はい。ほか何かありますか? 大丈夫かな? はい。
じゃあまたちょっと時間過ぎちゃいましたが、最後に一曲だけ歌って終わりましょうね。じゃあさっきちょっと出た『愛しきクリシュナここへ来て』を久しぶりにいきましょうか。
※歌
はい。久しぶりに歌うと、とてもいい歌ですね(笑)。毎朝これで目覚めてもいいかもしれない(笑)。「主よ~」って感じで、渇仰と共にね、一日を始めるのもいいかもしれないね(笑)。
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