勉強会講話より「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(5)
【本文】
このように菩提心を発こす者は、善根という薬を回向(えこう)することによって、悪業と煩悩を焼き尽くし、一切の法を「全智」という黄金に変える。
また、菩提心という一つの要素を持つ者は、たとえ他のすべてが煩悩で覆われていたとしても、その煩悩は菩提心まで覆うことはできない。
しかし菩提心という一つの要素によって、他のすべての煩悩を焼き尽くすことができるのである。
たとえば、暗い家の中に、一つの灯明を灯したとする。たとえ一千年の間、その家の中が暗闇で覆われていたとしても、一つの灯明がともされることによって、すべての暗闇は瞬間にして消え去る。
同様に、菩提心という一つの灯明が、無明という心の闇のなかに生じるや否や、無始の過去から蓄積されてきた悪業と煩悩の闇はたちまち取り除かれ、叡智の光明が生ずるのである。
はい。で、またいろんなね、たとえを使って、菩提心の素晴らしさを言ってるわけですが――一番最初が、「このように菩提心を発こす者は、善根という薬を回向(えこう)することによって、悪業と煩悩を焼き尽くし、一切の法を「全智」という黄金に変える」ってありますが、このたとえっていうのは、いわゆる錬金術のたとえですね。錬金術っていうのは、まあわれわれはね、あまり縁がないと思うけど、昔のインドとか中国で、まあ流行ってた――つまり、あるあまり価値がない金属ね、鉛とか鉄とかを、いろいろ熱したりしながら、ある種の薬をそこに混ぜることによって、黄金にしてしまうと。これは実際、そういうことができたかどうかは分かんないんだけど、それがまあ、流行ってた時代があったんだね。だからこれは、たとえとして使われる。つまりすべてを一瞬にして黄金に変えてしまう薬のようなもんなんだと、菩提心はね。そのように、一切の法を全智、ね。完全なる智慧という黄金に変えてしまうんですよと。
これも何回か言ってるけどね、われわれが本当の意味での悟り、智慧に近づこうと思ったら、この菩提心、あるいは慈悲の心っていうのは、不可欠です。不可欠っていうか、それがそのための素晴らしい力になる。これは一見、ちょっと矛盾するような感じがあるんだけど。つまり、菩提心っていうのは、周りのためにっていう、みんなのことを考える心だからね。つまり慈悲の心と、それから智慧っていう二つの要素があって、それはよく二つ必要ですよっていうわけだけども、この二つ必要だっていう意味は、全く別々のものが二つ必要っていう意味ではなくて、お互いにお互いを補い合うんだね。菩提心とか慈悲がないと、本当の意味でわれわれは悟ることができない。で、悟りがしっかりしてないと、菩提心や智慧もうまくいかないっていうかな。だから両方われわれは、しっかりと追い求めなきゃいけない。だからこれは総合的に、お互いにこう総合依存のような形で、いい影響を与えながら進むんだね。
だから「はい、智慧の道がありますよ。菩提心の道がありますよ。どっちですか?」っていう話ではないんです。この「どっちですか?」っていうやり方をやると、失敗します。失敗っていうか、あまりうまくいかない。うん。「わたしはまあ、智慧とかどうでもいいから、みんなのために生きたい」――これではなかなか、智慧がないから本当にみんなのために生きられないっていうか(笑)。で、逆に「いや、わたしは、みんななんてどうでもいいんだ」と。「おれはおれの悟りだけを追い求めるんだ!」と。でもこれは、ちょっとうまく説明はできないけども、何かが欠けてるんです。つまり菩提心っていう一つのエッセンスがないと、本当の意味での悟りも得られない。だから、二つをしっかりと求める必要があるんだね。