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ライトエッセイ お・・・オーム・マニ・パドメー・フーム

 チベットでよく唱えられている、大変有名なマントラですね。
 観音様のマントラであり、六道輪廻のカルマを浄化してくれると言われています。
 最初の目標は10万回程度でもいいですが、最終目標は一億回、いや、生涯かけてチベット人たちは唱え続けるようです。
 このマントラをチベット中に普及させたのは、パトゥル・リンポチェといわれています。
 また入菩提行論をチベットで普及させたのもパトゥル・リンポチェといわれ、パトゥル・リンポチェは入菩提行論の著者のシャーンティデーヴァの生まれ変わりともいわれています。
 入菩提行論は、わたしは仏教の最高の論書の一つであると思います。ダライ・ラマ一四世がチベットからインドに秘密裏に亡命する際、荷物を制限しなければいけない中で、経典としてはこの入菩提行論だけを持って行ったともいわれています。

 さて、チベット語はDの前の音が変音する決まりがあり、そのような文法的な錯覚というか、なまりによって、チベットでは「オーム・マニ・ぺメ・フーム」と唱えます。
 チベットではこのような文法的なチベットなまり的な、本来のサンスクリットとは違うマントラの唱え方がいろいろあります。たとえばヴァジュラをベンザと言ったり。

 まあもちろん、中国経由の日本のマントラはさらになまってしまっていますが(笑)。

 もともとインドのサンスクリット語というのは「神の言葉」であり、マントラもサンスクリット語の正しい発音に忠実でなければならない、という考えがあります。

 ではこの「オーム・マニ・ペメ・フーム」などのなまったマントラは、効果がないのでしょうか?

 「効果がない」と言い切る人もいるかもしれませんが、わたしはそうは思いません。端的にいえば、もし偉大な師からそのようなマントラを授けられ、それに対して弟子が強い信を持ったならば、そのマントラは発音が本来と違っていようが、大きな力を持つでしょう。

 これに関するある逸話があります。昔、チベットのサキャ・パンディタが旅をしていると、ある修行者が間違った発音でヴァジュラキーラヤのマントラを唱えている声が聞こえてきました。サキャ・パンディタはそこへ行き、修行者に、その発音は間違っており、正しい発音はこうですと教えてあげました。しかしその修行者は、このマントラは我が師から授けられたものである。正しい発音もたしかに大事だが、それよりも純粋な心が大事なのだ。わたしは純粋な心で信を持ってこのマントラを唱えてきたし、これからも唱えるだろう、と言いました。それを聞き、サキャ・パンディタは感動しました。そしてその修行者はキーラの法具をサキャ・パンディタにプレゼントしました。
 その後、サキャ・パンディタは、チベットとネパールの国境で、ある外道の修行者と出会いました。彼はチベットに外道の教えを広めようとしていました。サキャ・パンディタはそれを止めるために、彼と論争しましたが、論議においては双方互角で譲りませんでした。そこで外道の修行者は神通力合戦に出て、空中に浮かびあがりました。サキャ・パンディタは以前に出会った修行者のことを思い出し、彼にもらったキーラを取り出すと、彼が唱えていた”間違った”発音のヴァジュラキーラヤのマントラを心を込めて唱えました。するとその力によって、外道の修行者は空中から落ち、敗退して退散していきました。

 つまりもちろんサンスクリットの正しい発音は大事ですが、それを授けてくれた師や、その伝統への強い信と、それを唱える純粋な心があれば、それはその正しい発音も凌駕する力を発生させるということですね。
 
 もちろん、だからといって、適当な人が適当に授けた間違ったマントラじゃだめだと思いますが笑。やはりそこには、そのマントラがそのような発音になった何らかの深い意味もあるんだと思います。ここではあまり深くは考察しませんが。

 ですからたとえばチベット仏教に信を持つ人が、チベット風のちょっとなまったマントラで唱えたとしても、それはそれで大きな力を持つと思います。

 あるいはわたしの経験ですと、わたしはどちらかというと仏教系のマントラもチベットなまりのものよりもサンスクリットに忠実な唱え方の方が好きですが、たとえばカーラチャクラのマントラなどは、チベットなまりの唱え方の方が、好きというよりも、実際に効果を感じます。気が通り、意識が目覚め、エネルギーが上昇し、強まる感覚があります。これはわたしが過去世でチベットなまりでたくさん唱えていたのかもしれませんし(笑)、あるいはこのカーラチャクラに限ってはチベットなまりのマントラの系統と縁があるのかもしれません。

 そういえば以前、不思議なことがありました。これは20年以上前のかなり昔のことですが、瞑想で非常に深い意識に入ったとき、その深い意識の中でマントラまたは詞章などを唱えようとしたのですが、なかなか唱えられないのです。それだけ、表層意識が消えた、深い意識に入っていたということなのですが、そこでなぜか、ヴァジュラサットヴァの百音節のマントラだけは鮮明に出てきて、唱えられたというか、それだけをずっと深い意識で唱えていました。
 これがなぜ不思議なことかというと、実はそのころわたしはすでに10万回以上唱えたマントラや詞章がいくつもありました。しかしそれらは一切思い出せず、まだそのころ数千回しか唱えていなかったこのヴァジュラサットヴァのマントラだけが出てきたのです。しかもこのヴァジュラサットヴァのマントラは、百音節というだけあって、マントラの中ではかなり長いマントラなのです。他の短い、そしてたくさん唱えたマントラは出てこずに、この長く、そしてまだあまり唱えていないマントラが出てきたのが驚きでした。そして深い意識でこのマントラを唱えると、その潜在意識(つまり深い睡眠のような、ふつうは意識が飛んで気絶しまうような世界です)でも意識が覚醒し、鮮明になるのです。
 これはこのマントラ自体がそれだけの力を持つのかもしれないし、またわたしが個人的にこのマントラと強い縁があったり、過去世でたくさん唱えていたのかもしれませんね。

 この瞑想で入る非常に深い意識は、チベットでいういわゆるバルド、つまり我々が死後に経験する世界ととても似ています。この死後のバルドにおいては、その人のカルマや心の習性によって、さまざまな幻影のヴィジョンがあらわれます。そして一握りの優れた人以外は、特に現代人のほとんどは、ここで恐ろしい、けがれた、あるいは煩悩的なバルドを経験するでしょう。そしてその世界に飛び込んでしまったら、いわゆる地獄、動物、餓鬼という苦しく恐ろしい三悪趣の世界へと生まれ変わります。
 そうならないように、生きているうちに正しく生きることや修行に励むことよってカルマと心を浄化しなければならないわけですが、仮にそれらの浄化が十分でないうちに死んでしまい、悲惨なバルドに入ってしまったとしても、もしそこで神聖なマントラや詞章や瞑想、あるいは教え、あるいは帰依している師や神やブッダのことなどを思い出すことができたならば、一瞬にして世界は変わり、救われる糸口が出てきます。
 しかしバルドでそれらが出てくるほどになるには、相当の修習が必要です。よって生きているうちに徹底的にそれらの聖なるデータを修習することもお勧めします。

 また話がタイトルの「オーム・マニ・パドメー・フーム」からだいぶ広がってしまいましたが、わたしは勉強会の講話などでもいつもこんな感じです(笑)。特にこのライトエッセイは構成など考えずにさらっと軽く書くというのが趣旨なので、タイトルはあくまでも話の最初のとっかかりに過ぎないと思ってください(笑)。

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