勉強会講話「聖者の生涯 ナーロー」⑥(3)
◎真の早道
【本文】
ナーローがティローに受け入れられるまでに経験したさまざまな試練は、ナーローの「十二の小さな試練」と言われます。そしてこの後、いよいよ「十二の大きな試練」と呼ばれる試練が、ナーローに与えられることになります。
ティローは、ナーローに教えを与えることなく、一年間、蓮華座で座って一人で瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。
ティローは、「教えがほしいなら、ついて来い」と言って、歩き出しました。
二人はある大きな寺の屋根に上りました。そしてティローは言いました。
「もしわしに弟子がいたならば、そいつはここから飛び降りただろうな。」
これが自分に与えられた指示だと気付いたナーローは、躊躇せずにそこから飛び降りました。
ナーローは全身を地面に打ち付けられ、瀕死の重症を負いました。ティローは神秘的な力で傷を癒すと、さまざまな基本的な教えを与えました。
まず、ティローはナーローを弟子として受け入れたわけだけども、全く教えを与えず、一年間一人で瞑想し続けたと。ナーローはその間中――実際にはナーローはもちろん奉仕してたわけだから、ティローのいろんな食事の世話とかいろいろしてたと思います。で、それ以外はずっとティローの周りをね、つまり右繞の礼としてこう回って、ぐるぐる回りながら懇願ね――つまり「どうかわたしに教えをお与えください」と懇願してたと。いいですか、それを一年間ですよ(笑)。
よく密教っていうのは早い道、つまりスピーディな道だといわれる。でも、スピーディな道といっても別に、師匠に弟子入りして、「よし弟子入りしたか」と。「じゃあこの瞑想法やりなさい!」っていって、それをやったら三日で悟りましたとか、そんな虫のいい話ではないね(笑)。例えば『八十四人の密教行者』とか読んでも分かるけど、例えばこの教えで十二年で悟りましたとか、六年で悟りましたとか――まあ悟りのレベルはそれぞれ違うと思うんだけど、そういうのが書かれている。つまりそれは、さっきも言ったけども、本来ならば何回も宇宙が生じては滅して辿り着くぐらいの境地を、十二年ぐらいでいっちゃうんです。そういう意味でのスピーディなんだね。だからちょっと言ってるレベルの桁が違うっていうか。しかし、そういう意味ではスピーディなんだが、やってることは非常になんていうかな、さっきの言い方すると、現代人のわれわれにとっては厳しい世界です。
まさにだからこの話を読むと、われわれにとってはね、「え!?」と思うかもしれないけど、こんなの当たり前なんです。インドとかの――これは密教だけじゃなくて、ヨーガの世界もそうです。ヨーガの世界でも、例えば弟子入りして、一年間何も教えてもらえず、懇願し続けると。これはもう当たり前の世界なんだね。
最近はそうではない。最近はそうではないっていうのは、最近よく、チベットが崩壊してチベット仏教の聖者とかが欧米とかに布教に行ってる。あるいはヨーガがブームになって、ヨーガのいろんなヨーギーが欧米に出向いてね、で、非常に簡単に弟子を取り、で、簡単にセミナーとか開いて、どんどんどんどん深い教えを与えたり瞑想法を与えたりして、いろんなステージも与えたりする。「あなたにはこの大聖者なんとかなんとかっていう称号を与えましょう」とかね。それははっきり言うと「布教」――つまり浅く広く教えを広めるっていう意味でそういうことやっているんだろうけども。あるいは欧米人の場合ね、特に東洋人特有の、この教えで説かれるような師弟関係、あるいはじっくりと一つのことを成し遂げていくっていう発想が薄いので、それでパッパッパッパとやっているのかもしれません。
これはいろんな聖者方――聖者っていうかな、リンポチェとかいう人もよく言ってる。例えばチベット仏教の本来のスタイルでは、例えばヴァジュラサットヴァのマントラを十万回唱える。曼荼羅供養を十万回やって、あるいは発菩提心の詞章を十万回唱え、五体投地を十万回やって、あるいはグルヨーガのマントラを十万回唱え、その後に、やっと本格的な瞑想に入りましょうと。これが本来のチベットのやり方ですけども、でも現代のね、欧米人とかはそんなことできないから。そういうことやったら誰も仏教の修行やらないから、現代においてはそういうのやらなくていいですよって言ってるリンポチェとかも結構いる。
でもみなさん分かると思うけど、そんなことないよね。できる、そんなこと。例えばKさんとか、ヴァジュラサットヴァ二十万回唱えているんだっけ(笑)? 二十万回ぐらい唱えてるし、この中にも何人かヴァジュラサットヴァは十万回唱えている人いるし、五体投地も十万回やっている人はいます。回数にしたらね。チベット人のお坊さんの五体投地ってけっこうゆったりやってるから。ゆったり、ゆったりこうやってるんだね。だから時間にしたらかなり時間がかかってしまうっていうか。それから発菩提心の詞章も十万回唱えている人はここに何人もいるだろうし、それはやる気があれば当然それくらいはできるんだね。
で、そういったオーソドックスなものだけじゃなくて、まさにこのナーローの話にあるように、例えば一年でなくて三年間とかね。例えばこういう話よく聞いたことあるよね。弟子が師匠に弟子入りを懇願して、で、例えば三年間通い続けたとかね。三年間通い続けたけども、師匠は「駄目だ、お前は弟子入りさせない」と言って、で、三年間毎日毎日師匠の家の前に行って座り続けたとかね。で、やっと許してもらって、とかね。そういった話は日本でも中国でも、チベット、インドでもよくいろんな世界であるわけだけど。いろんな武道の話とかね、職人の話とか。で、そういったメンタリティっていうのは、実際やっぱり修行には必要なんだね。で、それが実際には早道っていうか。そういうすべてを投げ打って、「わたしにはこれしかないんです」と。
例えばもう一回ここをリアルに考えると――いいですか、リアルに考えてくださいよ。わたしに偉大な悟りをもたらしてくれると期待して、やっと受け入れてくれたティローが、ずーっと黙ってるんですよ(笑)。で、ナーローは一日中回っているんですよ。一日中回って、「どうかわたしに教えをお与えください、教えをお与えください」と。みなさんだったら、何日でギブアップする? ね。三日経っても、ずっと黙っているんですよ。多分食事はしたでしょう。食事のときだけで、あとはずーっと瞑想してる。ね。ぐるぐるぐるぐる回ると。三日経っても駄目、一週間経っても駄目だと。一ヶ月、ね。半年と。半年も頑張れないかもしれないね、普通はね。でもナーローは全くそれは関係なかったっていうか。つまり打算がなかったんだろうね。ただ単純に純粋に、このグルが自分に悟りを与えてくれるんだと。ただ純粋に懇願し続けると。
◎師や神の仕掛け
はい、そして、ついに一年経ってティローが「教えが欲しいならついてこい」と言って――これは有名な話ですけども――二人で一緒にね、大きな寺の高い屋根の上に登って、「もしわたしに弟子がいたならば、そいつはここから飛び降りただろうな」って言うんだね。ティローパは大体こういう感じで何気なく言うんだね。「さあ、飛び降りろ!」って言うんじゃなくて、「おれに弟子がいたら……飛び降りたんだろうけどな……」みたいな感じで言うんだね(笑)。
で、ここで大事なのは、躊躇せずに飛び降りたってことです。つまりこれはね、この「飛び降りただろうな」っていう言葉にも、ある意味罠がある。なぜかというと――分かるよね? つまり、言い訳がきく罠なんです。
ちょっとね、話がずれるけども――これは、まさに師と弟子の物語だけども、こういう感じで師と弟子の間のやり取りの場合もあるし、そうじゃなくていつも言うように、修行者と神のやり取りの場合もあるんだけど――こういう形で、仕掛けがよくかかります。で、この仕掛けっていうのは、まさにこのナーローの話、今の話で分かるように――いつもですよ、いつも、逃げ道が用意されるんです。あるいは言い訳がきくようにできてるんです。本当に純粋に誠実な心で考えたら――これは師とのやり取りにしろ、神とのやり取りにしろ――「あっ、この状況は、わたしが今これやらなきゃいけないんだな」っていうのは分かるんだけど、でも言い訳がきくようにできてるんです。例えば「先生のさっきの言い方は、『やれ』じゃなくて『やったら?』だったから、じゃあやんなくてもいいのかな?」とかね。ちょっとこういろんな言い訳がきくようにできてるんだね。で、それが罠なんです。で、その言い訳の方に、つまりエゴの方に逃げると、そこでの仕掛けは失敗してしまう。あるいは自分のけがれが増大してしまうっていうかな。
ちょっとこれは説明しづらいんだけども、もう一回言いますよ――ちょっと説明はしづらいけどストレートに言うと、みなさんが本当の意味でバクティヨーガや、あるいはグルヨーガといわれる、師と弟子、あるいは神と修行者の純粋な信の関係ね――に入ると、師匠やあるいは神や仏陀から、みなさんの修行を進めるためのさまざまな仕掛けがやってきます。で、その仕掛けに対する正しい答えは、ただ一つ。いかに誠実にそれに対応するかなんだね。
あの、間違えるのはしょうがないですよ。智慧がなくて間違うのはしょうがないんだけど、じゃなくて、誠実に読み取れば、実は分かる場合がほとんどです。しかしわれわれは、本当は心の奥では分かってるんだが、実はその正解を取るとつらい場合が多いので、ね(笑)、心の中で逃げ道を探すんですね。
で、もう一つ言いますね。もう一つ言うと、じゃあ逃げた場合どうなるんですか?――失敗です。失敗することによって、そうですね、いろんなパターンがある。失敗して、そこで屈折し、けがれが増大するパターンもあるし、あるいは単純に失敗してまたやり直しの場合もある。
じゃあ、この人が失敗したこの課題を乗り越えるにはどうすればいいですか?――それは、自分が逃げたそのポイントを、ちゃんと超えるしかないんだね。
つまり何を言いたいかっていうと、必ず最後はそこを越えなきゃいけない、逃げずに。で、それに多くの場合、最後にやっと気づきます。最後にやっと気づくっていうのはどういうことかっていうと、つまり、まず逃げ道があるように見える。で、逃げるんですね。で、失敗する。ああ、この逃げ道は駄目であったと。大失敗、堕落であったと。で、また一生懸命頑張ってると、同じような仕掛けが来ます。で、なんとなく本当は正解が分かってるんだけど、またやっぱりそれ嫌だから(笑)、次の逃げ道を探す。そうするとあるんです、次の逃げ道が。で、そっちへ逃げると、でもそれも実は失敗であったと。これを繰り返すうちに、とうとう最後に、逃げ道がないっていうことが分かるんだね。そこでその――最初からそれを取れば良かったんだけど、その最も自分のエゴが嫌がる正解の道を、最後に取らざるを得なくなる。
でもね、今言ったパターンは、これね、聞いてて分かると思うけど、時間かかるでしょ? だから一番いいのは、最初から覚悟決めることなんです。実は分かってるから。これだなって分かってるから。まさにこのナーローのように。つまり、ナーローはこの時点で、言われたときに、つまりティローは何気なく言っただけだったんだけど、「わたしに弟子がいたら飛び降りただろうな」――ここで直感的に、「あっ、おれに言ってるんだな」って分かった。でも、一応言葉面だけとったら、弟子がいたらっていう仮定であると。「飛び降りただろうな」ってなんか感想……(笑)。だからおれへの指示じゃないのかもなっていうふうに考えたくなるわけだね。だって飛び降りるのは誰だって嫌だから。だからそっちの方の希望的観測に逃げたくなるわけだけど、でもナーローはもうそんなのは超えていたわけですね。そんなのものは、妥協しないと。常にグルへの誠実な想いを取り続けると。で、そこでパッとこう飛び降りたと。
これは前にも言ったけど、「あるヨギの自叙伝」に書いてある、ババジとババジを訪ねてきた弟子の話も同じような話があるよね。ババジっていうのはヒマーラヤに――今も住んでいるかどうかは知らないけど、ヒマーラヤに住んでいて、で、少数の弟子と共にヒマーラヤをあっちこっち行ったり来たりしてると。で、ヒマーラヤ山中を歩いて旅するときもあるけども、大抵はテレポーテーションするっていうんだね。ある所にいて、パッと消えて別のところに現われたりとかするっていう話があって。で、ある男がヒマーラヤ中を探してついにババジを見つけたっていうんだね(笑)。見つけた時点で「すげえ!」って思うんだけど(笑)、見つけたと。で、見つけて、自分の思いをすごくババジにバーッと言うわけだね。「わたしはもう本当にあなたなしでは生きていけません」と。「ずーっと探してきました」と。「どうか弟子入りさせて、あなたの弟子の一行のお仲間にわたしも入れてください!」ってこう懇願するわけだけど、ババジは冷たく、「お前の今の状態では、弟子入りさせることはできない」って言うんだね。で、そこでその男は、「もうわたしはあなたの弟子になれなければ、もう生きていくことはできません!」って言うんだね。そこでババジは冷たく、「じゃあここから飛び降りなさい」って言うんです。そしたらその男は、まさにナーローと同じように、全く躊躇せずに、それを命令と考えて飛び降りたんだね。そしてババジは飛び降りた後に弟子に命じてね、彼の死体を拾ってきなさいと。その弟子が崖の下に行ったら、もう完全に体がばらばらになった肉片があったわけだけど、その肉片を持ってきて、ババジがそれを神秘的な力で甦らせて、で、その男は肉体ではなくて、新たな精神的なっていうかな、霊的な体で甦ったわけだけど。それに対してババジが「さあ、これでお前は弟子になれる」と。つまり「お前のあのけがれた肉体の状態では弟子入りできなかった」と。これもだから、彼のものすごい決意と、それからこだわりのなさっていうかな、その誠実さを表わしてる。
はい。ただこれはさ――なんて言うかな――ここにいる人たちはいろんな人がいるだろうし、あるいはこれは後々にこの話も本になったりすると思うので一応言っとくけども、全員がこういう道を行けというわけではない。これはあくまでも密教の道だからね。密教の中でも、特に最も崇高なというかな、最も難しい道の一つですね。だからそれは、その道をわれわれも歩むんだって思う人は、当然これを自分の目標としてね、ナーローのようになることを目標にしてもいいし。で、そう考えない人は、一つの修行のタイプというかスタイルというか、やり方なんだぐらいに考えていてもいいと思います。
◎隠されたスイッチ
はい。とにかくナーローは、一見よくわけが分からないこのティローの指示に、ある意味盲目的に、何も考えずに従い、そして体が打ち付けられ瀕死の重傷を負うわけだけども、ティローによって癒され、そこで教えを説かれる。これはこの後も全部同じパターンなんですけど――ティローがまず、ある何気ない指示をして、その指示にナーローが従い、それによってひどい目に遭うと。ひどい目に遭って、ティローがそれを治して、で、そこで教えを与えるんだね。これがこのティローの流儀の、このマハームドラーの伝授の仕方なんです。
どういうことかっていうと、ちょっとこれも説明しづらいんだけども――つまり現象を使って、現象によってあるショックを与えます。あるその人のカルマを浄化するような、あるいは心のある部分を破壊するような――つまり爆弾をバーンと仕掛けて、ある部分を破壊したあとに、やっとそこで教えを与えるんだね。なぜかというと、その爆弾によって穴を開けないと教えが入らないからなんです。ストレートに言うとね。だからその仕組みがこの高度なマハームドラーの師と弟子の間ではなされるんだね。
で、だからその一つ一つの出来事っていうのは、まさにこのティローとナーローの間でのみ通用したものであって、別の師弟関係では全然通用しません。別の仕掛けが必要になる。だからこれをね、馬鹿な人がただこれだけ読んで、真似しても全然駄目だよ。例えば「じゃあおれもナーローみたいになろう」って言って、高い所に登って、パーッて飛び降りても(笑)、それは悟れないよ(笑)。じゃなくて、全然違うような――これは前も言ったけどさ、もう本当にこの世レベルでは全く意味が分からないようなスイッチが、いろんなところに隠されているんです。これはもう全く何だか分からないよ。もうそれは予想を絶する、想像を絶することです。想像を絶するっていうのはつまり、分かりにくいことです、はっきり言うと。われわれこういうの学んじゃってるから、けっこう――これが来たら多分分かりやすいでしょ? 例えばM君とね、屋上に一緒に行って、「M君、おれに弟子がいたら飛び降りるだろうけどな」と(笑)。
(一同笑)
これ分かりやすいよね。ピーンと来て、「あっ! まるでナーローみたいだ! やった、おれもナーローみたいになれる!」(笑)。
(一同笑)
これ分かりやすいよね(笑)。分かりやすい。でも、もっと分かりにくいんです。「えっ、何でそんなこと言うの?」とか「何でそんなことしなきゃいけないの?」とか。あるいはそれが修行だとか指示だとか、もうよく分からないような状況で、仕掛けが来るんです。だからこれは非常に分かりづらい。それはだから、分かりづらいからちょっと例も挙げられないんだけど(笑)。
そうですね、例えば……とにかくその具体的な例は別にして、例えばみなさんが一見、それが悟りとは何も関係ないんじゃない? それはちょっとわたしにとって苦しいことだけども、全然かっこよくないし、悟りとも関係がないし、あるいはそれは自分はやりたくないことであるというようなことが、神の指示あるいは師の指示としてやってくる場合もある。で、それを例えば師の意思であると、あるいは神の意思であると受け取って、それを乗り越えたときに、みなさんの中で何か――それは霊的に、物理的に、そして精神的に壊れるものがあるんです。で、そこで初めて、適用できる教えがあるんです。
これは映画の「マトリックス」の世界にとても近いんだね。マトリックスの世界に近いっていうのはどういうことかっていうと、つまりわれわれの世界っていうのはいわゆる幻影だってよく言うわけだけど、つまりコンピュータのプログラムのような世界にわれわれは生きているわけだね。まさにあのマトリックスの映画みたいに。で、このプログラム――幻影ではあるけども、一応の法則性に則ってこの世界はできてる。で、その中に、その幻影を少しずつ解いていくキーがいろいろ隠されてるんです。それが――ちょっとわたしもマトリックスの映画とか忘れちゃったけど、例えばあのマトリックスの映画の中でね、マトリックスといわれる仮想空間から現実に戻るための、何かスイッチだったり、例えば薬を飲んだりとか、あるいは繋がる電話があったりとか、何かいろいろ隠されているわけだね。で、そういうのがこの世界にもあるって考えてください。
で、それは予想だにしないところにあります。予想だにしないところって例えば――そうだな、例えばM君が、M君は今坊主だけど、例えばM君が髪が長いとしてね、まあ前長かったわけだけど、それに執着してたとするよ。「おれはこの髪、けっこう似合う」とか思ってたとするよ(笑)。で、そこでわたしが何気なくね、「夏だからそろそろ坊主にでもしたら?」って言ったとするよ。それが実は仕掛けかもしれない。で、そこでM君は「あっ、先生が言ったからしようかな」とも思うけども、でも自分のかっこよさに執着していた場合ね、「いや、夏だから剃るって、それは合理的じゃないんじゃないですか?」とか言って(笑)。あるいは「無料体験の人が坊主だとビックリするんじゃないですか」とかいろいろ理屈をつけて(笑)、それを回避しようとする。でもそれは、その時点ではさ、それに例えばわたしが何気なく「坊主にしたら?」って言って、それをしなかったとしても、別にそれはたいした問題ではないと思うよね。でも実は、坊主にすることでM君の悟りのスイッチがカチャッと入る場合があるんです(笑)。これは一例ですよ。うん。一例だけど、それによってカチャッと入る場合があります。つまりいろんなところにそのスイッチが隠されている。で、それはもちろん、分かりやすくいうと、実は説明もできるんです。なぜそれが必要なのか。でもそれは、つじつま合わせなんだけどね。つじつま合わせであって、本当は実は、もうちょっと――何て言ったらいいかね――論理を超えたものなんだね。ちょっと不思議な話なんだけどね。論理を超えてるんですけど、でも実は論理で説明できるんです。つまり何を言いたいかっていうと、その説明できる論理っていうのは実は、こじつけなんです。本当は論理を超えてるんだね。うん。でもその論理を超えたものっていうのはわれわれは受け入れ難いんだね。「何でそうなるんですか?」ってなるじゃないですか。だから一応は説明できるようにはなっている。だからこのナーローに対するティローの仕掛けも、説明できると思います。もし哲学的に説明しようとしたら。でもそれは実は要らないんだね。だからあんまり深い説明は突っ込まれていないっていうか。ちょっと難しい話だね、やっぱりね。
はい。で、ここではまず、最初の段階なので、ナーローは試練を与えられたあとに、基本的な教えをね、いろいろ教わりましたと。
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