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勉強会より 「聖者の生涯 ナーロー」⑥(1)

20100519 聖者の生涯 ナーロー⑥

◎桁違いの大聖者

 はい。今日はまたナーローの続きね。
 ナーローっていうのは一般的によくナーローパとして知られていますけども――「パ」っていうのはチベット式の言い方なので、実際は「ナーロー」といわれますね。
 で、このナーローに関しては、前から言ってるけども、相当レベルの高い話です、これはね。っていうのは――人によって見方は違うのかもしれないけど――インド、チベットにはいろんな聖者がいるよね。それはみなさんもいろんな聖者の名前を知っているでしょう。で、実際あまり仏教とかヨーガの世界っていうのは、ランキングとかしないからね(笑)。――西洋の人たちっていうのはランキングが好きで、よく変な西洋の神秘思想家が書いた適当な本とか読むと、「お釈迦様何点」とかこう書いてあって(笑)、「第何位。知性何位」とか適当なこと書いてる(笑)、自称チャネラーみたいな人が結構いるけども、もともとチベットとかインドってあんまりそういうランキングはしないので、いろんなね、聖者が並列で扱われるわけだけど、実際にはもちろんレベルの違いっていうのはかなりあると思う。
 で、まあこれはわたし個人の見解としては、やはりこのナーローっていうのは相当ちょっと桁違いの――例えばチベット系でいうとパドマサンバヴァとかと同じようにね、桁違いの聖者、大聖者なんだろうなっていう感じがするね。で、このね、ナーローっていうのはカギュー派といわれるチベットの流れの教祖的な存在なわけだけど、このナーローの次にマルパ、そしてミラレーパ、そしてガンポパと続くわけです。それは今後の「聖者の生涯」シリーズでやりますけども。これはこれから学べば分かると思いますが、ナーロー、そしてマルパ、ミラレーパ、ガンポパ――大体ね、ミラレーパあたりからわれわれがかなり共感する話になってきます。つまり、まだわれわれにも想像できる範囲の話になってくるわけだけど。そういう意味ではこのナーローっていうのは、ちょっとこうわれわれの想像や経験を遥かに超えた世界なので、一見ただこれだけ読むとわけが分からない世界になってきます。ただいつも言うように、その中からでもそのエッセンス的な部分は、今のわれわれにも役に立つところは多々あるので、そういう部分をね、学んでいけたらいいなと思います。はい。
 で、前回までの一応簡単なことをいうと、インド一の大学者として、つまりインド一の仏教大学の長として君臨した――つまりインドにおいては、彼と仏教学において並ぶ者はないとまでいわれたナーローパが、ダーキニー――つまり修行者を助ける女神が変身したおばあさんの忠告によって、そのすべての地位と名誉を捨てて、本当の悟りを自分に与えてくれるグル・ティローパを探しに旅に出るわけですね。で、その中で――実際その正体を言うと、全部グル・ティローなんだけども――ティローが現わしたいろんな幻に引っかかって、で、さまざまな試練を経験しながら、全く真のティローを見つけ出すことができずに旅を続けてきた――というのが前回までですね。で、今回やるところから、ついにティローとの遭遇のところに入っていきます。

◎純粋で揺るぎなき信

【本文】

 ナーローは落胆し、再び旅を続けました。
 広々とした草原に来たとき、彼が出会ったのは、たくさんの片目の人たち、目の見える盲目の人、耳の聞こえる耳のない人、言葉をしゃべる舌のない人、走り回るびっこの人、そして自分自身を優しくなでる死体でした。ナーローが彼らに、ティローを見なかったかと尋ねると、彼らはこう言いました。

「その人にしろ、どんな人も見たことはないよ。もしあなたが本当にその人に会いたいなら、次のようにすることだ。

 信頼と献身と確信によって
 信念の揺らぎない勇気を持つ弟子は
 ふさわしい器となる。
 精神的な人々の集いの中で
 師の霊性をしっかりとつかんで離してはいけない。
 観点には直感的理解のかみそりを用いよ。
 注意の方法には、至福と光輝の馬に乗れ。
 行為の方針としては、二分制の束縛から解放されよ。
 そうすれば、
 片目であるとは、大衆の資質のことであり、
 目が見えないとは、ものを見ることなくして見ることであり、
 耳が聞こえないとは、ものを聞くことなくして聞くことであり、
 口がきけないとは、何かをしゃべることなくして語ることであり、
 片足が不自由とは、急がずして動くことであり、
 死神の不可動性とは、無為なるものの微風(扇子であおられた風のような)
 であることを理解する
 内なる光の太陽が輝く。」

 このようにマハームドラーのシンボルが示されて、その後、すべてが消えました。

 これを見ても分かるように――分かるようにっていうか(笑)、わけ分かんないでしょ(笑)。ね。わけ分かんなさがよく分かったと思います(笑)。ただまあ一応ね、基本的なところだけを言うと、この詞章のところをまず見ると、

 信頼と献身と確信によって
 信念の揺らぎない勇気を持つ弟子は
 ふさわしい器となる。
 精神的な人々の集いの中で
 師の霊性をしっかりとつかんで離してはいけない。

 これは基本的なところですね。信頼――つまり師に対する信頼と献身ね。そして確信を持ち、揺ぎない信念ね、揺るぎない勇気を持つ者こそが、この密教の道あるいはマハームドラーの道にふさわしい器なんだと。つまり疑いを持っている弟子、あるいは――よく最近ではいるわけだけど、「わたしは修行はしたいけども、仏陀を信じるとか、師を信じるとかそういう気持ちはありません」と。そういう人にはもう、入れない道なんだってことだね、ここはね。まず「信」――純粋で揺るぎのない「信」というのが第一の必要要素になります。

◎見解・瞑想・行為

 はい、そして次に「観点には云々」って書いてあるけども、ここはね、ちょっと翻訳があんまりこれはよくなくて、実際これは――こういう密教系の本よく読んでたり、あと翻訳したりする人は分かると思うけど――これは定型的な言葉としてよく「見解・瞑想・行為」っていう言葉があるんですね。チベット仏教とかインド密教で使われる、「見解・瞑想・行為」。それは言葉通りなんですけど、まず「見解」――世の中を、世界をどう見るかっていう見解の問題。そして「瞑想」ね。どういう瞑想するのか。で、「行為」というのは、この現世における日常の行動においてどうするのかっていう問題ね。これを「見解・瞑想・行為」といいます。で、それがいろんな修行体系によって――例えばゾクチェンにおいては見解とはこうであり、瞑想はこうであり、行為はこうである、とかね。マハームドラーにおいてはとか、あるいはパドマサンバヴァの教えでは、とかね。そういうふうに説明されるわけだね。その部分だと考えてください。
 で、まずだからこの「観点」というのは「見解」。つまり、まずこの世界をどう見るのかという部分に関して、直感的理解のかみそりを用いよって書いてある。ね。これは「あなたは直感でいいですよ」って言ってるわけではありません(笑)。あのさ――そうだね、これは実際ちょっと字が正しくないかもしれない。ここで直感って書いてあるのは、「直」に感覚の「感」で直感って書いてあるけど、どっちかというと、「直」に「観る」と書くほうの「直観」の方がいいかもしれない。これは実際のところを言うと、われわれが本当の意味で修行を進めて出てくる、言葉とか教えとか概念を超えた、直接認識的な智慧だと考えたらいいですね。逆に言うと、それがもしないとしたら、出てこないとしたら、まず修行が足りないので、まずはそれをしっかりと進めなきゃいけない。
 で、それは、かみそりって書いてあるけど、つまりまさにこれはかみそりのように切れ味が鋭い。スパッとした感じでわれわれに物の見方を教えてくれます。ただ実際にはそれは、もし仮にみなさんが一生懸命修行して、それを一度二度と経験できたとしても、すぐに消えます。すぐに消えるっていうのは、ちょうど水の上に書いた線のように、すぐに消えます。で、その瞬間はありありとした直観的理解がある。でもそれは実際には、しっかりとその境地に入り続け、それを自分の見解にしなきゃいけないんだね。
 で、注意の方法には――これはだから注意というよりは瞑想と言ったほうがいいかもしれない。「瞑想の方法には、至福と光輝の馬に乗り」と。これも実際にはそのためにいろんな修行をやらなきゃいけないわけだけど、つまり至福――つまりエクスタシーを伴う瞑想の道ね。そして光を伴う瞑想の道があります。それによって修行を進めていくんですね。実際にはこれにもう一つ加わって、無分別――この至福と光と無分別。これがオーソドックスな瞑想――密教とかでね、瞑想を進めていく道ですね。ここではだから無分別がちょっとこう省かれているというか、実際にはそれもあるわけだけど、一応ね、至福と光輝だけ挙げられているんだと思います。実際には至福と光、そして無分別を高めていくね、強めていく道が、瞑想ですよと。
 これはマハームドラーの修行の勉強会でもよく言っているけども、まずわれわれが良い瞑想に入れているかどうかの基準は、この三つです。つまり、そこに至福感、エクスタシーがあるか。そして、光、輝くような光があるか。それもだから相対的にね、どれくらい――例えば「瞑想で気持ちいいですか?」「いや、別に気持ちよくないです」。あるいは「いや気持ちいいですよ」と。「じゃあどれくらい気持ちいいですか?」と。「なんか本当に清々しい感じです」――じゃなくて、もう本当にのた打ち回るようなエクスタシーの場合もあるし、あるいはその時期が過ぎ去ると、静かなんだけども本当に、ちょっとこの世から意識が外れてしまうような、静かだけども強いエクスタシーとかね。そのエクスタシーの段階がある。あるいは、光もそうですね。ぼんやりとした光。あるいは強いんだけど瞬間的な光。あるいは一方向から差す光。あるいはそうじゃなくて、すべてが光に包まれるとかね。で、その光の強さもいろいろ段階がある。そして無分別というのもそうですね。心が止まった状態。止まったってどういう形で止まっているんですかと。例えば完全に体が固定され、心もバシッと止まるわけだけども、その継続時間とかね。あるいはその意識の鮮明さであるとか、そういったもので段階がある。だからこの三つがバロメーターになるわけだね。
 それは何回か言っているように、その人の修行要素のどこが足りないとかどこが優れているとかあるわけだけど、それによってこの三つが、まあバランスが普通は悪い。例えばある人は、エクスタシーはあるが光がないと。ある人は光があるがエクスタシーがない。あるいはある人は心は止まるが、光もエクスタシーもないとかね。これはそれぞれのバランスがあるわけですね。で、それを全部こう高めていかなきゃいけない。
 で、よく修行の本とか見ると、エクスタシーに捉われてはいけないとか、光が見えても捉われてはいけないとか書いてある。それは確かにそうなんだが――でね、そういうことを言う人もよくいるわけですね。修行によってその歓喜状態が来たり光が見えたりしても、そんなのは意味がないですよって言う人もいるわけだけど、それはその次の段階で言う話なんだね。まずそれも起きてないのに「意味がない」って言ったら、それはただの物知らずであって、実際にはその段階をしっかりと経験しなきゃいけない。経験し高めた上で、それにこだわらず捉われず――それは一つの道ですからね――その道を通ることによって、ゴールに達さなきゃいけない。
 いってみれば、よく言われるように、いかだは道であって、いかだはゴールではない。でもいかだ作らなきゃしょうがないから(笑)。ね。この話知ってるよね。ある人が旅をしていて、川を渡るときにいかだを作る必要があった。そこで一生懸命苦労していかだを作って、いかだに乗ってね、本当にその激流の中を苦労して渡って、なんとかあっち側にたどり着いたと。でね、ゴールはその川を越えてさらに、山を越えたところにゴールがあるんですよ。でもある男はそこで「おれはすごいいかだを作って、このいかだによってこの激流を渡ることができた!」と。それにもう執着してしまって、それから先の山道もいかだを背負って歩いたと。ね(笑)。これは非常にばかばかしいと。で、それに対してお釈迦様とかは、「それはもう終わったんだから、いかだに執着してはいけない」と。「いかだに意味はないんだ」っていう教えを説くわけだね。でも多くの人は、まだ川を渡ってないんです。渡ってないのに、知ったかぶりして、「いかだは意味がない」と言ってる。この場合この人は、どうなりますか?――溺れ死にます(笑)。ね。その状態でもし瞑想世界に入ったら、溺れ死にます。だからその境地、つまり瞑想の境地を深め、瞑想がいらない境地になるまでは、当然そのオーソドックスな瞑想のさまざまな段階っていうのはしっかりと通過していく必要があるんですね。それは細かく言えばいろいろあるわけだけど、大雑把に、大まかにその一つのバロメーターとされるのが、今言った光、そして歓喜、そして無分別というやつですね。
 はい、そして「行為の方針としては、二分制の束縛から解放されよ」。
 はい、行為。つまり日常の行為ね。日常においての心がけること。これはまさに、いつも読んでる『バガヴァッド・ギーター』の「得ることと失うこと、快と不快、称賛と非難などの二元対立を超え」、これがまさにそうですね。つまりわれわれは常にこの二元性の中に生きているわけだけど、この世に生きこの世で活動しながらも、できるだけ二元性に巻き込まれないようにね、生きると。これが行為の一つ方針ですよっていうことだね。はい。ここまでは比較的分かりやすいですね。

◎目の見える盲目の人

 はい。問題は次の部分。これがね、ナーローが経験したことでもあるわけど、つまり草原に来たら、たくさんの片目の人たち――目の見える盲目の人、耳の聞こえる耳のない人云々って書いてあって、それに対応する詩が述べられるわけだけども。これはですね、一言で言うと、説明不可能です(笑)。ただしこれは、そうですね、わたしもある種の深い瞑想に入ったときに、これと似たようなことをネットとかに書いた覚えがあります。つまり、こう表現するしかないような経験があるんだね。あるいは領域があるっていうか。つまりこれはなんていうかな、言葉にしてしまうと、ちょっとレベルが下がってしまうというか、悪い意味でちょっと遠ざかっちゃうんだけど、でもあえて言葉にすると、こういうなんていうかな、矛盾を含んだ――つまり相反する二つの意味を持った言葉でしか表現できないことがあるんだね。例えば「目の見える盲目の人」と。何ですかそれはと(笑)。盲目といった段階で目が見えないはずなのに(笑)、「目の見える盲目」。でもそう言うしかない境地があるんだね。で、これはある程度それを経験した人は分かる。つまり「やっぱり目の見える盲目だよな」っていうその(笑)、「そうだよね」っていう(笑)、分かるんだけど、そうとしか言えないっていうかね。だからなんだっていうことが言えない世界ではあるんだけど。でもこれはだからわれわれが本当に――さっきのT君の質問じゃないけども、過去・現在・未来とか、あるいは輪廻であるとか、がっちりはまったこの幻の世界から、ちょっと頭とか足が外れ始めてきたときに感じることに似ているね。
 ちょっとこうなんていうか、ベースからちょっと外れちゃうんです。ベースから外れるっていうのは――あのね、恐らくここにいるみなさんが思い描いている、例えば修行が進んだときの経験とか、例えば修行が進んだらこうなるんだろうなとか、あるいは高い世界のことね。例えば、神の世界に行ったらこういう感じかなとか、それは全部この輪廻の夢の中にはまってる意識での経験、イメージだから。全部そういう意味では外れています。本当の意味の高い世界とか、本当の意味での悟りの世界っていうのは、そのイメージの範囲外にあります。で、それはなかなか表現不能っていうかな。無理矢理表現しようとすると、このわれわれのいる世界の言葉ではちょっとこう矛盾に満ちた言葉にならざるを得ないというか。そういう言葉でしか表現できない世界なんだね。で、これがマハームドラーのシンボルと書かれていますが、まさにそうなんですね。マハームドラーというよりも、深い輪廻を超えた世界のシンボルというかね――は、そういう形でしか表わせないと。

(T)先生、目が見えないっていうのは、この物理的な肉体の目が見えないと内側の身体の目が見えてくるとか、そういうあれじゃないんですか?

 そうじゃないね。あのね、そういうふうにその、解説する人もいるかもしれない。でも、そういうレベルの話じゃないんだね。

(T)僕、仏教の六神通のところのあたりの話してるのかなって一瞬思ったんですけど、天眼通と天耳通と、あと、えっと天耳通……神と喋るほうのやつが、口がきけない……

 まあ、あのね、例えばこの経典っていうのは、もともとインド・チベットに伝わっている経典で、日本ではあまり有名じゃないけど、欧米とかチベットとかではいろんな人が解説してるんだね。で、その中ではもちろん今T君が言ったような解説をしている人もいるかもしれない。でもわたしはそれは全然違うと思うよ。うん。そういうレベルの話でないと。いいですか?(笑)

(T)はい(笑)。

 はい(笑)。じゃあ次いきましょう。

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