世界と縁、生きる意義
人が死んだ後、何かが周りの世界に残るのか
少なくとも、その死んだ本人が考えているようなかたちでは、残らない。
なぜならその死んだ本人、たとえばAさんが生きている間に見ていた世界とは、その本人だけの世界だからだ。
Aさんが死んだ瞬間に、その世界全ては消滅する。
その世界から、Aさんだけが去っていくというのではない。
その世界そのものが消滅するのだ。
そして数十日後から、Aさんはまた別の夢を見始める。
別の他者たとえばBさんは、Bさんの中の世界の中の一つの景色として、その死んだAさんがいた。そしてそれはまたBさんだけの世界なのだ。それは、Aさんが自分で考えていたAさんの姿ではないかもしれない。
いや、もっと極端な怖いことを言えば、Aさんの世界の中にBさんがいても、Bさんの世界の中にはAさんはいなかったかもしれない。
だから、たとえばまた別の例をあげると、
この地上に偉大なアヴァター(神の化身)が現れたとしても、
ある者は彼を神と見るが、ある者は普通の人と見、ある者は愚者と見、
ある者は彼を認識さえできないかもしれない。
まあ、これについてはこれ以上細かく突っ込んで考察するのはやめにして
そのような実体があるようで無い人間関係の中にも
条件的関係性(縁)というものがあるのは間違いない。
その縁をいかに善きものにするか。
それがただ一つの、意義ある生き方となる。
善きこととは
自分自身にとっては、
自分の世界の中の、聖なる領域を、徹底的に広げる。
至高者・ブッダ・師・慈悲・その他さまざまな教えなどの聖なる存在で、自分の世界をいっぱいにすること。
他者にとっては、
他者の世界に、善を侵入させること
自分が、他者の世界の中の、善の要素となりえるよう生きること
それは自分の考えているような形には必ずしもならないが
正しく修行し、正しい教えどおりに生きるなら
何らかの形で、自分の存在は、自分の死後も、誰かの世界の中の善として残るだろう。
それによってその誰かの生命の道筋を、幸福・真理への道へと変える手伝いができるかもしれない。
もしあなたが、自分自身と戦い
師がいる者は師の教えに誠実に
師がいない者は聖典の教えに誠実に
全力で生きるなら、
必ずやあなたの人生は、誰かのためになる。
それらを実現するキーは
至高者・ブッダ・師などへの帰依。
そして慈悲・菩提心。
そして決して誰をも憎まず、恨まず
誠実に全力で生きること。