ヴェーダーンタの実践(7)
7、過去・現在・未来、あるいはすべてのものを認識する絶対的な不変なる自己と平等に結びつている一つの連続した原理が存在しない限り、われわれは、場所、時、因への心の印象の影響下にある記憶や認識などを説明することができない。
真我は、観念とははっきりと異なるものであり、観念よりも優れている。なぜなら観念は、それらと結合し、結びついている究極の原理を必要としていて、一方、真我は究極の原理そのものであり、観念の認識を可能とするものだからである。
8、「アハム」とはサンスクリット語で「私」、「イダム」は「これ」という意味である。
私が自分自身のことを言うとき、私は「アハム」と言う。そして私はあなたのことを言うとき、「イダム」と言う。
あなたが私に対して話すときは、それらの言葉は逆になる。
あなたにとって、私の「イダム」は「アハム」となり、私の「アハム」は「イダム」となる。
机がひっくり返ったようなものだ。
至る所に「アハム」という一つのありふれた意識があるだけなのである。
「イダム」は心が創り出したもの、誤った属性であり、アディヤローパ(重ね合わせ)である。あたかも、蛇をロープと見間違えるかのように。
蛇はロープのヴィヴァルタ(幻影的な現れ)である。
「イダム」は「アハム」のヴィヴァルタなのである。
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