ヴァジュラ
◎ヴァジュラ
はい、そして次が、
「ヴァジュラ、太陽の光、そして薬樹のようなこの教えの意義を理解すべきである」。
この心の訓練の教えの素晴らしさをヴァジュラ、太陽の光、薬樹と例えてるわけですね。
ヴァジュラっていうのは、まあよく仏教で使われる言葉ですが、実際は多様な意味があるんだね。サンスクリット語っておもしろいのは、一つの単語で多様な意味を持ってる。ヴァジュラっていうのはもともとは、インドの古代の武器だったといわれています。で、これはインドラ神――つまり帝釈天ですね――天界のインドラ神の武器だともいわれています。巨大なヴァジュラをインドラ神は振り回して、で、そこから雷のビームを放つらしいです(笑)。これがインドラの武器。
で、ヴァジュラっていった場合、インドラの武器にも形容される雷。雷のこともヴァジュラっていうんですね。それからもちろんこの法具自体もヴァジュラっていいますが、この法具には「決して壊れない」っていう象徴があるんです。決して壊れないもの。で、そこから転じて、いわゆるダイヤモンド。宝石のダイヤモンドのこともヴァジュラっていいます。
まあ、だからそれらの意味がある。つまりまずダイヤモンドっていう意味でいったら、決して壊れないダイヤモンド――つまり決してどんな魔的なものにも、あるいはどんな論理にも決して壊されない最強の教え。これが、菩提心からなる心の訓練の教えなんだと。
それからもう一つの意味としては、ダイヤモンドというのは、一般的な価値観としては最高の宝石だと。最高に硬く、そして最高に輝きを放つ、最高に価値のある宝石であると。で、仮にダイヤモンドのかけらしかなかったとしても、他の宝石にもその価値は勝ると。
これは一つのイメージとしてね、考えてみてください。ダイヤモンドがありますと。ダイヤモンドがかけてしまって、かけらしかありませんと。でもその他のどうでもいい石とか、あるいはもう少し価値のある貴石とか宝石とかと比べても、それらがもうちょっと大きかったとしても、かけらでもダイヤモンドの方が素晴らしいと。これは一つの例え話としてね。
で、これと全く同じで、この菩提心からなる心の訓練の教えっていうのは、例えかけらしかなくても、他の教えよりも素晴らしいんだと。
つまりどういうことかというと、例えばみなさんが、菩提心――何度も言うけども、菩提心が背景にあるっていうのがもちろんポイントだよ。菩提心を背景として、自分の心を変革していくような教え。この教えにみなさんが出合って、それに足を踏み入れたなら――いいですか? しかしまだ――例えばTさんが、菩提心の教えに出合いましたと。ハッとして、「そうか。わたしは菩提心によって、自分を少しずつ変えていこう」と。しかしまだあまり変えられていない(笑)。ちょっとずつ変わってるんだけど、まだいろんなエゴが出てくる。この状況の人と、そうじゃなくて、「菩提心なんて関係ありません」と。「わたしはただエネルギー的に自分がエネルギーが突き抜けて、あるいは自分の心が静まってニルヴァーナに入れればいいんです」と。あるいは、「菩提心なんて関係ありません。ただわたしは戒律を守って、心が静まればそれでわたしは満足です。菩提心とかそんなのはわたしはよく分かりません」っていう人がいたとして、この人がとても修行が進んで、非常に心が静まっている。あるいはもっといえば解脱している。解脱して心は静まっている。でも菩提心がない。これよりも、全然初心者なんだけど、菩提心をちょっとずつやっているTさんの方が価値があると(笑)――いうことなんだね(笑)。
これは人と比べてもしょうがないんだけど、自分の中でも考えたらいいかもしれない。自分が仮に菩提心に出合わなくて、単純に自分の心を静める教えとか、単純に表面的な論理を展開するような教えに出合って、それをかなり身につけたとしても、それよりも、まだちょっとしかできてないんだけど、菩提心の道を歩んでる方が価値があるっていう考えなんだね。
で、それもヴァジュラ――つまりダイアモンドという意味で説かれてます。
◎雷
あともう一つ、ヴァジュラのさっき言ったもう一つのイメージは、雷ね。この雷っていうのも、『入菩提行論』にも雷の例えが出てきますが、暗黒の夜に一瞬雷がピカッと光って、一瞬すべてを照らし出す。で、菩提心の教えにわれわれが巡り合えたこと。これはまさにこの一瞬の雷みたいなものなんだね。
前も言ったけど、わたし初めてラーマクリシュナの僧院を訪ねたときに、とても感動的だったんだけど、ラーマクリシュナが崇拝したカーリーのその像を見ようと思って――まあちょっと人がいっぱいいてね、混んでたんだけど――「何かよく見えないな」って思って――まあとてもドラマティックなんだけど――やっと見えたんだね。で、その見えるときにフッとそのカーリーの顔が視界に入ったときに、その瞬間雷がパッてなったんです。で、まさにちょっとアニメーションみたいだけど(笑)、パッて光でカーリーの顔がパッて見えたんだね。「おー! すげー!」って思って(笑)――……まあそんな感じ(笑)。つまり、暗闇の中でわれわれがこう迷ってる者に、真理の光が一瞬、パッて来るんです。
でも逆にいうとそれは、ものすごい稀なチャンスなんだね。つまり、みなさんが今日みたいに勉強会とか、あるいは本を読んだりして、菩提心の教えに出合えることっていうのは、そんなにみなさんすごいことだと考えてないかもしれないけど、みなさんの魂の遍歴の中で、ものすごいことなんだね(笑)。一瞬まさに雷によってすべてが照らし出されたようなものなんです。だからこのチャンスをつかまなきゃいけないんだね。
「ああ、そうなんだあ。そういう教えもあるんだ……」って言ってるうちに、われわれと菩提心の縁がなくなってしまう場合もある。だから、「この菩提心の教えこそ最高である」と。「みなさんこれを実践しましょう!」っていうその縁に巡り合えたときっていうのを逃さずに、それを自分の生涯の実践項目とするために、しっかりとそれをつかまなきゃいけない。こういうイメージもあるね。
◎太陽の光、薬樹
はい、そして、「太陽の光」。太陽の光っていうのもよく使われるイメージですが、つまりすべてを照らし出す。つまりわれわれの住んでる世界の――特に昔の時代とかそうだけど――われわれの世界の光としては最強の光なわけだね。最強の光。つまりろうそくとか――昔のイメージだとね――ろうそくとかあるいはランプの光では照らし出せないような闇でも、太陽は一瞬にしてすべてを照らし出す。それがこの教えなんだよと。
そして「薬樹」。薬樹っていうのはわれわれの病気を治す効能のある樹っていうことだね。教えは病気を治す薬に例えられるけど――そういうイメージですね。つまりこのイメージっていうのは、師匠はお医者さんだと。教えは――特にこの菩提心の教えっていうのが、その薬であると。で、自分は病人だと。そういうイメージだね。
だから病人であるからにはまず医者の言うことを聞いて、そして実際に薬を飲まなければいけない。つまり薬の効能を知っていてもしょうがないんです。つまり「おれは病気になった」と。で、その薬をもらってその薬について調べる。徹底的に薬について調べて――例えばインターネットとか、あるいは辞典とか持ってきて、その薬についてはあらゆることを知りつくしたと。でも飲まなきゃしょうがない(笑)。だから「飲め」ってことなんだね。
つまりわれわれが「菩提心というのはこうである」とか、「修行とはこうである」「仏教とはこうである」っていくら知っていても、実践しなければ何の価値もない。その実践するイコール薬を飲むっていう比喩なんだね。
で、医者イコール師匠。つまり師匠のいうことを忠実に聞いて、その背景には自分は病人だっていう認識がなきゃいけない。つまり自分がまともな人間であるともし考えてる人がいるとしたら、それ自体がもうちょっと狂ってる(笑)。つまり、自分はちょっとおかしいと。おかしいっていうのは、魂の状態としておかしいと。そういう認識が必要なんだね。つまり、完全におれは病気だと。その人がいかに一般社会でまともに見られていたとしても、魂の状態としては病気なんだと。このエゴとか怒りとか執着とかある時点でもう病気だと(笑)。ね。本来のわれわれの魂の状態っていうのは、純粋な至福。純粋な愛。そして純粋な、何にもとらわれない、ありのままにものを見つめる力。こういったものに満ち溢れているはずだと。それが、「おれは朝から晩まで明日のことを心配し、昨日のことを後悔し、目の前のことに不満ばかり言い、こんな人生を送ってる」と。「おれはおかしい」と(笑)。「何かがおかしい」と(笑)。「こんなはずではない」と――よってそれを認識し、それを治してもらうために、師匠、あるいはその聖なる存在に対して自分を投げだすわけだね。「どうか治してください」と。で、その聖なる存在や師匠が与えてくれた教え――これを薬と考えて実践する、イコール薬を飲むっていうイメージだね。