yoga school kailas

ライトエッセイ く・・・苦しみの聖なる真理

 小学校低学年のころ、父親が、いわゆる子供向けの仏教漫画を買ってきました。それは「12縁起」「四諦」「八正道」などのいわゆる原始仏教系の硬派な内容がテーマのものでした。
 そのころ私は、マンガ雑誌にしろ、何かの読み物にしろ、とにかく隅から隅まで読むという習性がありました(笑)。例えばマンガ雑誌の場合、表紙の裏にある広告から始まって、懸賞のページなども含め、とにかく書いてある字をすべてよむのです(笑)。そして読み終わるとまた最初から同じことを繰り返すのです。
 そのためこの仏教漫画も、子供向けのマンガ部分だけではなく、巻末にある大人向けの解説ページも含め、何度も繰り返し読んだ覚えがあります。別に面白かったからではなく、そういう習性があったからです(笑)。
 つまりわたしはこの小学校低学年時にすでに、まるでチベットの小坊主さんのように、12縁起の法や四諦、八正道などを繰り返し教学修習していたわけですね(笑)。

 さて、「四諦」というのは、お釈迦様が悟りを開き、初めてお説きになった教えです。子供心に、お釈迦様が開いた悟りというのはいったいどういうものなのだろう、という興味がありました。そしてその悟りを開いて最初に説かれた教えが、「この世は苦しみである」でした。これは子供心には「?」でしたね(笑)。「それが悟り?」「暗い教えだな」と思いました(笑)。

 その後、中学生のころからヨーガや仏教の修行を始め、また聖典も学んでいくうちに、この四諦の深い意味もようやくわかってきました。

 この世は苦しみです。いや、この世には苦しみも楽もあるではないかというかもしれませんが、実際にはこの世には「ましな苦しみ」と「すごい苦しみ」があるだけです(笑)。

 わたしはこれについて、よく「皮膚病のたとえ」をあげて説明します。ライトエッセイなのであまり突っ込みませんが、簡潔に書くと……皮膚病の患者は患部をかかないほうが早く治ります。しかし患者は患部をかきます。なぜでしょうか? かくと気持ちいいからでしょうか? それはそうかもしれませんが、そもそも皮膚病のそのかゆさから逃れたいと思ってかくわけですよね。そしてそのかいたときの気持ちよさというのは、皮膚病の苦痛が一時的に治まっている状態にすぎませんよね。
 もしこの患者が皮膚病を完治させたら、「ああ、あの皮膚病をかいたときの気持ちよさが忘れられない。もう一度皮膚病になりたい」とは思わないでしょう(笑)。なぜなら皮膚病がない状態こそが、生来的に健康で、最もすがすがしく、気持ちのいい状態だからです。

 この辺は実際はヨーガの真我論で説明した方がわかりやすくなります。仏教は歴史上、ヒンドゥー教への対抗意識によって、真我の否定、あるいは無我という観念に固執しすぎた感じがします。
 仏教が言う「ヒンドゥー教の真我論の否定」は、わたしは好意的に言って「意図的誤読」だと思います。ヒンドゥー教(ヨーガ)だってもちろん、我執の否定、「わたし」と「わたしのもの」の否定、つまり「わたし」も「わたしのもの」も実在しないというのは、大前提の真理です。つまり真我とは、その意味での「わたし」ではないのです。ちょっとヒンドゥー教やヨーガの勉強をすれば、その辺がわからないわけはありません。
 ではその「わたし」という幻影を超えたとき、そこに何があるのか? 何もないのか?――それは言葉では言えません。悟るしかありません。言葉という二元を超えた世界のことだからです。「ある」と「ない」を超えているのです。しかし一応、二元の道具である言葉を使って表現しなければいけないので、ヒンドゥー教は肯定的に「真我」や「真の実在」「ブラフマン」などと言い、仏教は否定的に「無我」と言っているだけです。
 まさか仏教の無我が、本当に何もないただの無だと思っている人はあまりいないでしょう(最近はけっこういるような気もしますが)。

 お釈迦様も原始仏典で例えば、

「この心は、すばらしく光り輝き、清浄なるものである。
 そしてそれは、外的な煩悩の汚染によって染められるのである。」

などとおっしゃっています。つまり「四諦」でいうところの、苦しみの原因である煩悩の汚染が浄化されたとき、そこにあらわれるのは単に苦しみがない無の状態ではなく、光り輝き清浄なる心の本性の発現なのです。そしてそれは「安らぎ」などの言葉でもお釈迦様は表現しています。

 光り輝き、清浄であり、歓喜に満ちた心の本性――これは例えば密教、特にチベット密教で言うとカギュー派やニンマ派の教えにはよく出てくる教えです。しかしなぜかそういうことも否定する仏教の学者の方もいらっしゃいますね。そういう方々は本質の追求よりも、他宗派の否定に躍起になって本質を見失っているような気がします。

 宗派意識や論争の意識をとっぱらってありのままに見ると、仏教もヒンドゥー教も基本構造は同じです。

1.この世の一切は苦であり、幻影である。

2.それは無明や煩悩が原因である。

3.それらを取り除けば苦は終わり、幻影は消え、真実(心の本性)を悟る。

4.よって浄化するための修行をしましょう。

――これだけのシンプルなことです。そしてこれが「四諦」なのです。

 もちろん、自分だけではなく他者のために修行する菩薩道、その菩薩道をさらに高度化した密教、あるいはバクティヨーガなどでは、この「四諦」には収まり切らない超越的な教えが展開されますが、それらもこの「四諦」を基本としていることは間違いありません。

 仏教やヒンドゥー教には、その入り口として、現世利益を得るための教えなどもありますが、それらはあくまでも入り口に過ぎません。せっかく仏教やヒンドゥー教、ヨーガなどの真理との「稀有なる出会い」をしたのならば、そんなもの(先ほどの例でいえば、うまく皮膚病をかく方法のようなもの(笑))で満足するのはもったいないことです。ぜひ「心の浄化」のための修行に励み、心の本性を悟りえてください。そしてできるならば、他者のために修行する菩薩道、あるいは神やブッダへの信愛を極めるバクティヨーガなどの道にも入ることができたならば、人間の体を得た甲斐があったといえるでしょう。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする