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ライトエッセイ え・・・M

 Mとは、本名マヘーンドラナート・グプタ、ラーマクリシュナの在家の弟子で、有名な「ラーマクリシュナの福音」の著者です。

 なぜMと呼ばれているかというと、彼は「ラーマクリシュナの福音」の中で自分の存在をできるだけ隠すために、自分に対して様々な呼称を使いました。その一つが「M」なのです。

 彼は有名な「あるヨギの自叙伝」にも出てきます。そこで彼は神の道に迷っていた若き日のヨガナンダを導き、彼に母なる女神のヴィジョンを見せます。しかし「わたしはお前のグルではない。お前のグルはもうすぐやってくるだろう」と言って、ヨガナンダを弟子に取ることはしませんでした。この後、実際にヨガナンダは運命によって結ばれたグル・ユクテーシュワラと出会います。

 「あるヨギの自叙伝」では、Mは、ものすごい大聖者として書かれています。また、ヨーロッパの懐疑的なジャーナリストがインドを旅した記録として有名な「秘められたインド」の中で、著者はこのMと出会い、その魅力に魅せられ、「もしわたしが信仰の道に入ることがあるとしたら、このMのもとでであろう」というようなことを記しています。

 それだけ魅力的であり、かつ力を持った大聖者だったらしいのですが、「ラーマクリシュナの福音」の中では、けっこうラーマクリシュナに怒られたり、情けない部分などが描写されていて、大聖者のようには書かれていません。でもそれを書いたのもMですから、相当謙虚な人だったんでしょうね笑

 ヴィヴェーカーナンダの弟によると、Mは「ラーマクリシュナそのもの」だったということです。自分の考えを一切入れずに、また他の神や聖者に心を向けることなく、ただ師ラーマクリシュナだけに心を合わせ、ラーマクリシュナが作った鋳型にひたすらに自分を流し込み、ラーマクリシュナの道具になり切ったということです。そのため周囲には、まるでラーマクリシュナそのものであるかのような印象を与えていたのでしょう。

 Mのキャラクターをあらわす有名なエピソードがあります。あるときラーマクリシュナは、彼はニティヤーシッダ(生まれながらに完成した魂)だ、彼は……などと言って、若き優秀な弟子たちがいかに素晴らしい素質を持っているかを称賛していました。するとそこにいた信者の一人が、「ではMはどうなのですか?」と尋ねました。Mは当時まだ20代でしたが学校の校長をしており、そのような何人もの優秀な若者を、自分の学校からラーマクリシュナのもとに連れてきていたのです。その問いに対してラーマクリシュナはそっけなく、「ただの道具だ」と答えました。
 これは人によっては、そのように大きな貢献をしているMを「ただの道具だ」なんて言うなんてひどい、と感じるかもしれませんが、このエピソードを「ラーマクリシュナの福音」に書いているのもMなのです(笑)。そしておそらくMは、このように言われてうれしかったのではないかと思います。「ただの道具」というのはバクティヨーガにおける最高の理想ですから。

 ラーマクリシュナはナレーンドラ(のちのヴィヴェーカーナンダ)を溺愛し、皆のいる前でも周りが恥ずかしいくらいにナレーンドラを称賛したりしていました。また同様に、他の数名の若い弟子を称賛し、あるいは彼らにたっぷりの愛情を与え、かわいがっていました。
 しかしMは、彼らよりも少し年上であり、ラーマクリシュナもMに対してはそういう甘い態度は取っていませんでした。しかし何かあると命令したり何かを用意させたりするのはたいていがMであり、言葉や態度には出さない、最高の侍者としての信頼関係がラーマクリシュナとMの間にはあったように思えます。

 ラーマクリシュナは大事な話をするときなど、Mがそこにいないと呼び出したそうです。また、教えをしっかり理解しているか、ときどきMに質問をして確かめたりしていたそうです。
 「ラーマクリシュナの福音」を書けとラーマクリシュナがMに命じたわけではありませんが、これらの事実を見ると、実際Mは「ラーマクリシュナの福音」を書く使命があり、ラーマクリシュナもそれを知っていたのではないかと思われます。
 「ラーマクリシュナの福音」のもとになっているのは、Mが日々つけていた日記です。それをもとにMは瞑想に入り、その時々のシーンを思い出して書いたとされています。「ラーマクリシュナの福音」の描写は細かくリアルで、読む者も本当にその場にいるような錯覚に陥るほどです。Mの記憶力には驚かされます。「ラーマクリシュナの福音」はそこに書かれているシーンの場面に実際にいた法友たちが生きているころから発表され、彼ら皆がそれを「素晴らしい」と認めているので、それらが決してMの妄想ではなく、彼らが記憶していたのと同じ、リアルな記録だったということの証明になるでしょう。

 Mは生涯をかけて「ラーマクリシュナの福音」を書きました。それは五巻に及びましたが、四巻が発刊されてから五巻まではかなり長い年数が空いています。これは、五巻はラーマクリシュナの死の前後を扱っているため、あまりそれを思い出したくなかったのかもしれません。

 Mはラーマクリシュナの弟子たちの中ではかなり長生きしました。そして自分の使命であった「ラーマクリシュナの福音」の最後の巻を書き終えたその夜、Mは倒れました。そして翌朝、ラーマクリシュナとマー(母なる女神)の名前を何度も呼び、そして「師よ、マーよ、わたしを抱き取ってください」という最後の言葉を口にすると、亡くなりました。まさにドラマのように、使命をなし終えてそのまま亡くなったという感じですね。

 Mが住んでいた家は、現在では巡礼の聖地となっています。というのも、そこはMが住んでいたというだけではなく、ラーマクリシュナの妻であるサーラダー・デーヴィーが長期間滞在したり、ヴィヴェーカーナンダをはじめとするラーマクリシュナの高弟たちがやってきて瞑想したりしていたからです。またラーマクリシュナの遺品なども置かれています。

 わたしもヨーガ教室の仲間とともに、ここを訪ねたことがあります。そのときはラーマクリシュナや弟子たちにまつわるいくつかの聖地を訪ねたのですが、ラーマクリシュナが住んでいたカーリー寺院などは別格として、その他の聖地の中では、このMの家は、独特の素晴らしい、感動的なヴァイブレーションを感じました。

 実はMの家はもう一つあります。それはMが晩年、学校を経営し、そこに自分も住んでいたときの家です。これはカルカッタのアムハースト通り五〇番にある建物で、今でも学校として使われ、Mが住んでいた部屋は誰も使わずに保存されてあります。
 またこの建物は、かつて「あるヨギの自叙伝」のヨガナンダの一家が住んだ家でもありました。

 わたしはここにも行ったことがありますが、ここは最初、探し出すのに苦労しました。というのも上述のMの家と比べると、あまり重要視されていないようなのです。実際、Mの部屋に案内してもらうと、そこにはMが使っていたベッドが置かれ、その上に写真が飾られていましたが、部屋は掃除もされておらず、すすけており、大変残念でした。

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