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マンゴー

 道徳の実践において、「誰かが見てるからやる」とか、そういう考えはもちろんあまり良くない。
 しかし、「神やブッダが見ている」という感覚は、とても有益で素晴らしいものだと思う。
 いや、それさえも良くない、と言う人もいるけれど、私は経験上、実践的で良い考えだと思いますね。
 
 つまり、どこにいても、何をしていても、神やブッダはごらんになっている。だから道に外れた生き方はできない、という感覚ですね。
 それは強迫観念だ、と言う人もいるけど、これを強迫観念ととらえるほうがおかしいと思う。そのように思うのは、神やブッダとして表わされる「真理の本質」への愛が足りないからだろう。あるいは自分の心に余裕がなさ過ぎるのだろう。
 
 神や仏陀は、社会道徳を好むわけではない。誠実で清らかな心を好む。
 だから心の持ち方が最も大事だ。常に良い思いを持つということが最も大事なのだ。
 そして、自分が「良い」と思い込んでいても、あるいは社会常識的に「良い」といわれることでも、それが本当に自分と他者にとって「良い」ことなのかを、まじめに検討する必要がある。そのような検討のもとに、常に心の持ち方を大事にする。あるいは言葉を発する。あるいは行為をする。

 そのようにするならば、たとえそれが間違っていたとしても、神やブッダは、必ず正しい道に引き戻してくれるだろう。
 未熟でふがいない旅人であるわたしたちが、道を誤ることなど当たり前じゃないか。しかし真摯に道を進もうとしている者には、神や仏陀は、いつも様々な仕方で誤りを正し、道を提示してくれる。

 人間の前で、優等生にふるまう必要はない。神や仏陀の前で、優等生になれ。といっても、常にすべてお見通しなので、すべてをさらけ出した上で、優等生になる努力をする。
 神やブッダにすべてを投げ出す。といっても、甘えない。
 そう、最愛なる父母のように、教師のように、しかもそれは全く欠点のない父母や師として、神やブッダを見よう。
 彼らに常に見守られているという意識のもとに、彼らの愛にこたえるために、真摯に生きよう。

 ん? 神やブッダという存在が本当にあるか分からない?

 それはそれでもいいじゃないか。仮に神やブッダが存在しないとしても、上記のような生き方に、大きなメリットはあれど、どんなデメリットがあるというのか?

 わたしを射ったこの毒矢を放ったのはどこの誰か、この毒は何の毒か、なんてことを考えている暇があったら、早く毒矢を抜け、とお釈迦様はおっしゃっています。
 マンゴーの枝の数を数えている暇があったら、早くマンゴーを食べろ、とラーマクリシュナもおっしゃっています(笑)。

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