マハープルシャ・シヴァーナンダの生涯(長編)(5)
日が経つにつれ、ターラクは、遂に彼を人生の荒波を超えて寂静の避難所へと安全に導いてくれる人に出会えたという確信をますます強め、彼にとって俗世間は全く魅力のないものとなったので、世俗への執着は薄らいでいった。
外界の物事への無関心から、彼は自らの衣服や体裁にほとんど注意を払わなかった。そのために、彼はしょっちゅう、ぼーっとしているように見えていた。
集中が不必要に修行から外れてしまわないように、またさらなる自己調御の力を養うために、その頃の彼はいつも伏目がちで歩いていた。
彼のある年長者の知り合いの以下の回想がこれを裏付けている。
「ある日、カルカッタの通りを歩いているとき、わたしはターラクがガンガーへと沐浴に向かうのを見た。わたしは彼の名前を呼んだが、彼はそれに答えなかった。
傷ついたわたしは、『ターラクがわたしに失礼な態度を取った』と言って、その出来事を共通の友人に話したのだ。するとその友人は言った。
『君は彼を誤解している。ターラクは今、ドッキネッショルの聖者の弟子なのだ。彼は自身の人生の目標を神を悟ることだけに据えて、常に神の考えに浸り続けている。
次回、彼に会ったら、彼に近付いて話しかけてみておくれ。君は、彼が全然無礼などではないことが分かるだろう。』
その後、わたしはまたターラクに会った。彼は内に没入した感じだったが、わたしが彼の目の前に顔をつき合わせた瞬間、『ああ、おじさん、おじさん!』と声をあげ、素晴らしい敬意をもってわたしの健康を尋ね、挨拶をしてくれた。
彼の顔と目を見たとき、そこに深い霊性の刻印が印されているのが見て取れたのだ。」
ターラクは、彼が過去に大切に持ってきた理想が、すべてシュリー・ラーマクリシュナの中に顕現していることを深く実感していた。彼は、師が単なるヴェーダンタやヒンドゥー教の成就者なのではなく、すべての宗教を達成しており、彼を知ることは神を知ることなのだと感じた。
この確信が強まるにつれ、ターラクは自分の身体も心も魂もシュリー・ラーマクリシュナの御足に捧げていったのだった。
後に彼が信者に宛てて書いた以下の手紙の抜粋は、ターラクのシュリー・ラーマクリシュナへの献身の深さを示している。
「わたしは未だに、彼が人間だったのか、人間を超えた神、もしくは至高者ご自身だったかについての最終的な見解には至っていない。
しかし、彼は完全な無我の境地にあり、最も高いレベルにおける放棄の成就者であり、最高の智慧を持ち、まさに愛の権化であり、彼と共に日々を過ごすことでわたしの霊的領域に対する理解はどんどん向上し、わたしはシュリー・ラーマクリシュナの霊性の意識の無限の拡がりと深さを感じた。
彼を、巷で理解されているような神としての神と比較することは、彼の至上の偉大さを矮小化しおとしめるものだという確信が、わたしの中で強まっているのだ。
わたしは、彼が男性にも女性にも、知的な者にも無知な者にも、聖者にも罪人にも同じように愛を注ぐのを見てきた。そして、彼らが神を悟って、その苦難から解放され永遠の安らぎを得ることを、師は、熱心に絶え間なく憂い思いやっている様子がはっきりと見て取れたのだ。
わたしはあえて言いたい。世はこの近代において彼ほどに人類の幸福に身を捧げている人間を、他に見出すことはできないだろう。」
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