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マノモハン・ミトラの生涯(2)

 マノモハン・ミトラは、1851年9月、カルカッタから北へ9マイルの、ガンガーを隔てた場所に位置するフーグリ地区にあるコンナガルで生まれました。彼は、両親に多大なる影響を受けて育ちました。
 彼の父であるブーバン・モハン・ミトラは成功した医師であり、歴史、科学、そして英文学に精通していました。当時、インド社会は西洋文化の影響下にありましたが、その影響下にあるにも関わらず、ブーバン・モハンは西洋の享楽主義を模倣することなく、伝統的なヒンドゥー教文化の偉大な擁護者でありました。
 マノモハンの母親であるシャーマスンダリーは、非常に敬虔で、誠実な信仰心によってヒンドゥー教の儀礼と祭式を順守していました。

 かつてシャーマスンダリーが深い瞑想状態に入ったとき、彼女の親族の一人が、彼女の瞑想状態の真偽を試すために彼女の膝の上にサソリを落としました。その女性は、シャーマの瞑想状態がただの見せかけであるならば、彼女は大きな叫び声をあげるだろうと考えていたのです。
 しかしその女性は、シャーマがまったくその状況に気がつかず、彼女の膝の上を歩くサソリを意識していないことに気付き、驚いたのでした。

 マノモハンは最初コンナガルの学校で学び、それからカルカッタのカルカッタ・ヒンドゥースクールに通いました。彼は優秀な生徒ではありませんでしたが、良い行ないをした者に与えられる賞を毎年獲得しました。
 彼は叔父のラジェンドラナート・ミトラを通して、アーディ・ブラフモサマージの指導者であるデヴェンドラナート・タゴールと、ナヴァヴィーシャン・ブラフモサマージの指導者であるケシャブ・チャンドラ・センに出会いました。
 マノモハンの祖父は、ブラフモサマージとマノモハンの近しい関係と、彼の過度な宗教的傾向に気が付き、マノモハンが世を捨て出家してしまうのを恐れて、彼の結婚を手配しました。マノモハンはそのとき十七歳で、まだヒンドゥースクールの学生でした。
 結婚のあと、マノモハンは父親がベンガル東部のダッカへ行くのに同行し、そこで彼の教育は続きましたが、数年後に父ブーバン・モハンが病気になったとき、彼とマノモハンはカルカッタへ戻ってきました。
 1873年、ブーバン・モハンは一人の息子と四人の娘を残したまま、心臓発作で亡くなりました。家族に対する全ての責任が、若きマノモハンにのしかかりました。賢明な彼の母親は、カルカッタの家を賃貸に出し、コンナガルに家族で引っ越すことを提案しました。マノモハンは必死になって仕事を探したので、大学教育の継続を考えることができなくなりました。
 ついに彼は、カルカッタでベンガル政府事務局の事務職の仕事を得ましたが、コンナガルから毎日通勤しなければなりませんでした。
 しばらくしてマノモハンは七歳の娘を失い、ひどい錯乱状態になりました。少しでも時間ができると、彼は娘が火葬された場所を訪れるのでした。彼の母親はこのことを知り、家族でカルカッタに戻るように彼を説得しました。
 時の経過とともに、マノモハンは悲しみを克服しました。

 マノモハンの友達のラージュモハンは、ケシャブ・チャンドラ・センの弟子となっていました。彼らは二人とも、神や、今や伝道者として非常に有名になっていたケシャブの偉大さについて話すことが好きでした。
 ラージュモハンの影響と母親の励ましにより、マノモハンはブラフモサマージの修行を始めたのでした。彼は虎の毛皮の上に座り、一弦の楽器を弾きながら、幾つかの祈りを捧げました。
 彼はのちに、自叙伝の中でこのように書きました。

「そのときわたしは、祈りについて何も分かっていませんでした。わたしはよく、ブラフマンという言葉の前にいくつもの大げさな形容を加え、そしてそれが祈りだと考えていたものでした。
 わたしは、悲嘆と涙なしでは、心の不純性が洗い流されることはないと思っていました。そして心が純粋でなければ、純粋そのものであられる神を悟ることは誰にもできないのだ、とも。」

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