バクティの精髄(7)
◎信と渇仰心
信とはシュラッダーである。信は世界で最も素晴らしいものである。最も高度な合理性でさえも、その背景として信を持っている。人は、信じていないものを論理的に思考することはできないのだ。最高の哲学者でさえも、自分の哲学の本拠に信を持っている。どんな知性主義も、信によって支えられていないものを証明することはできない。全世界は信の上に立ち、信によって動かされている。宗教は、その根底として信を持っている。人は神に対して信を持っていなければ、神を知ることはできない。それはただ、信にかかっているのだ。
この信は、過去のサンスカーラの所産である。ある者は生まれながら哲学者であり、またある者は七十歳になっても宗教の根本を掴めない。これはすべて、過去のサンスカーラ(残存印象)によるのである。信は、過去生で為された行為のサンスカーラ(残存印象)に左右される。そして現在の信は、霊性の進化の進度に応じて、真理に近づいたり、真理から離れたりする。
人は強く信じたものをすべて経験し、強く信じたものになる。全世界とは、人が信をもって想像したものの産物なのである。もしあなたが世界を信じなかったら、世界は存在しない。もしあなたが感覚的な対象を信じなかったら、それらはあなたに喜びを与えないだろう。あなたが神に信を持たなかったら、あなたは絶対に完成に至ることはない。
邪信は、実在を非実在に変えさえもする。タイッティリーヨーパニシャッドにはこう説かれている。
「ブラフマンを実在しないと考える者は、その者自身が非実在となる。」
信とは、霊性のサーダナーにとって必須のものなのである。
求道心は信を育てる。それは信の一歩先をゆく。信の炎は、モークシャへの霊的渇仰心という大火災として燃え上がる。求道者は、神の経験を渇望する。それはもはや単なる信ではなく、外的な出来事によっては簡単に揺れ動くことのない強い熱情なのである。バクタは、愛する御方との合一を渇望する。彼は眠ることも休むこともできない。彼は常に、どうしたら愛する御方に達することができるのか、と熟考している。彼は祈り、歌い、主に対して気狂いになる。神聖なる狂気がバクタを襲い、彼は完全に、神への渇望の中で個性を失う。これが、自己の明け渡しと呼ばれるものなのである。
-
前の記事
バクティの精髄(6) -
次の記事
今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」