バクティの精髄(21)
◎アートマ・ニヴェーダナ
アートマ・ニヴェーダナとは、自己の完全なる明け渡しである。
「ヴィシュヌ・サハスラナーマ」には、こう説かれている。
「ヴァースデーヴァにただ一筋に完全に帰依した人の心は、完全に浄化される。そして彼は永遠なるブラフマンを成就する。」
献身者は、自分の身も心も魂も、すべてを神に差し出す。
彼は、自分自身のためには何一つ取っておくことはない。
彼は、彼自身そのものでさえも残らず捧げ尽くすのだ。
彼は、独立した個としての存在を持たない。彼自身をすべて神に捧げてしまったのだから。
彼は神の一部であり、かつ全体となった。
神は彼の世話をすると同時に、彼を自分自身であると見る。
深い苦悩や悲しみ、喜びや苦痛がやってきても、献身者はそれらをただ神からの贈り物と見るので、何らとらわれることがない。
彼は自分を、神の操り人形として、そして神の御手の中の道具として見る。
彼にはエゴイスティックな感情がない。なぜなら彼には自我そのものがないからである。彼の自我は、神にすべて捧げられたのだ。
神は、一切の世話をなさる。
神は、世界を正しい道に導く方法をご存じである。
人は、自分が世界を導くために生まれたなどと思う必要はない。神だけがすべてをご存じであり、人はそれらを夢の中でさえ知ることはできないのだ。
神の献身者には、肉体的な欲望がない。なぜなら彼は、肉体を神に捧げてしまったのだから。
彼は肉体にとらわれることがない。それは神の意思を実現するための道具に過ぎないのだから。
彼はただ神の存在だけを感じ、他の何ものも感じることはない。
彼は恐れを知らない。なぜなら、神はいつでも彼を助けているから。
彼には敵がいない。なぜなら、敵も味方も存在しない神に、自分自身を捧げてしまったのだから。
彼には不安がない。なぜなら、神の恩寵を達成することによって、すべてを達成したのだから。
彼には、自分が救済されたいという思いすらない。彼はただ単に神を、神だけを求めるのである。
彼はただ神の愛だけに満足している。
神が献身者の上に恩寵をたれたとき、他に達成されなければならない何があるというのか?
献身者は砂糖になりたいとは思わず、砂糖を味わいたいと思う。砂糖を味わうことには喜びがあるが、砂糖そのものになってしまっては、喜びはない。
ゆえに献身者は、神になることよりも、神を愛することに最高の喜びがあると感じるのである。
「私はあなたのものです」と献身者は神に言い、神は彼の世話を完全にみる。
このような「自己の完全なる明け渡し」は、絶対の愛を、ただ神だけに向けることである。
献身者の中には、ただ神の思いしかない。
願望においてさえ献身者は神と一体化するので、彼自身の個性は完全に失われる。
これは存在の法則である。
最高の真理は絶対なる境地であり、魂は神と同一化して絶対なる完全性を達成するまで、意識の様々な境地を通り抜けて上昇していく。
これは、すべての目的と愛の最高点である。
バガヴァッド・ギーターやバーガヴァタは、神への完全なる明け渡しこそが最高の境地を達成する唯一の方法であると、数多くの詩句を使って述べている。
完全なる明け渡しだけが、彼に平和を与え、彼をすべての罪から救うことができるのだと、クリシュナはアルジュナに説いている。
バガヴァッド・ギーターやシュリーマド・バーガヴァタを学ぶ人は、「完全なる明け渡し」がどれほど重要なこととして強調されているかを知ることだろう。
「完全なる明け渡し」によって、個の意識の滅尽と、完全なる意識の達成がある。
これは、ニルヴィカルパ・サマーディと等しい境地である。
献身者は、最高のマハーデーヴァの世界へと飛んでいき、神と一つになる。
波は海に帰り、火の粉は火に、光線は太陽に吸収される。そして意識は真我と一つになる。
個性は絶対性の中で彼自身を失う。
献身者は神に吸収される。
この世的な意識は、宇宙的な意識の中に消えゆく。
人は神となり、死すべき存在は不死となる。
神に属するものは何でも、最高の献身者に属するものとなる。
彼のすべての罪は破壊される。
彼には、なすべきことが何もなくなる。
彼の魂は完成した。
彼は最高の至福を得た。
彼にとって、全世界はただ至福として現れる。
ただ至高の愛のあらわれだけがそこにある。
ヴリンダーヴァンのゴーピーたちは、この愛を修習した。
バリ王は自己を主に明け渡した。
ゴーピーたちは神の思いに夢中になり、至高の境地を達成したのだ。
◎結び
バクティの九つの修行法は、バクタが人生の最高の理想を達成するための方法論である。
どんなバクタでも、これらの道を歩き、最高の境地に至ることができるのだ。
バクティの道は、最も簡単な道であり、それほど人間の性質の傾向に反しているものではない。
それはゆっくりと徐々に、人間の生まれ持った性質を滅することなく、人を至高者のもとへと連れてゆく。
それは、ヴェーダーンティンのブラーマラ・ケータカの流儀ではなく、アルンダテーの流儀、あるいはシャカチャンドラの流儀に則っている。
それは神を断定するものではなく、神の悟りを進めるものなのである。
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