バクティの精髄(14)
◎ヴァンダナ
ヴァンダナとは、祈りと平伏である。
・神のお姿の前で、帰依と敬意をもって、身体の八つの部分を地につけて謙虚に礼拝すること(サシュターンガ・ナマスカーラ)
・または、この世のすべてはただお一人の神のお姿であるということを知り、すべての存在に対して平伏すること
・そして、至高者の愛の中に自己を没入させること
これらは、神への平伏と呼ばれる。
バーガヴァタには、こう説かれている。
「自分の身体と言葉、心、感覚器官、思考、理性、本性、それらで何をなそうとも、人はすべてを至高者へ捧げるべきなのです。
主に背を向けて生きる者は、主のマーヤーで本来の自分を忘却させられてしまい、肉体が自分であるという概念の餌食となって、非常な恐怖を味わう羽目になるでしょう。それゆえ、識別智をそなえた賢者ならば、自分の師は主そのものであり、真我と同じであると理解して、大いなる信仰心をもって主をあがめるべきなのです。
相対性などは本来存在せぬものの、その中に浸りきった者の心では、それは夢のように、絶えず姿を現してくるでしょう。それゆえ賢者ならば、そのような観念や疑いを生じさせる自分の心を、十分に支配すべきなのです。そのようにすることで、人は恐れなき境地を手にできるのです。
それゆえこの世に生きる者たちは、手に円盤を持たれる主(シュリー・ハリ)の、吉祥な化身と遊戯の物語を絶えず耳にして、主の降誕と偉業をあらわす御名を、たとえ人からバカにされても、絶えず唱えて、無執着の心で生きて行くべきなのです。
そのようにして生きて行く者は、主への愛を深めて行き、心はバクティの中に融けいるや、何かにとりつかれたように、ときには笑ったり、泣いたり、叫んだり、そして歌って、踊り、この世の因習を捨てて、ついには物質的な世界を超えてしまうのです。
そのような信者は、深い信仰心を抱いて、空、風、火、水、土、星、動物、木々、川、海、それらすべての被造物を、主のお体と考え、低く頭を下げるでしょう。
人は主に自分をゆだねることで、バクティと、最高者の悟りを、速やかに得ることができるのです。
ああ、王よ、絶えず至高者の御足をあがめて生きる者は、主へのバクティ、この世の楽しみへの嫌悪、神の直接的叡智、それらを同時に得ることができ、ついには最高の平安(シャーンティ)に至ることができるのです。」
また、同じくバーガヴァタで、クリシュナはウッダヴァにこう語っている。
「わたしは今から、わたしを喜ばせることにつながる、最も吉祥なダルマの道を、あなたに教えるだろう。バクティの思いでこの道を歩むなら、その者は越えがたき輪廻をも越えていけるのだ。
あなたは理性と心をわたしに委ねて、わたしを満足させる行為に喜びを見いだし、わたしのことをたえず想って、すべての義務的行為を、わたしのためだけに行なうようにするのだ。
そしてわたしに帰依した聖者が住む地を訪ねて、神々や魔族、人間の中の、わたしの信者の行ないを見習うがよいだろう。
また神聖な日や、人々の集い、わたしを祭る祭典において、個人で、または集団で、王のように莫大な財産を用いて、わたしの栄光を讃え、歌や踊りでそれを祝うようにするのだ。
さらに自分の心を浄化して、すべての被造物の中に、さらに自分の内と外にも、最高の真我であるわたしが、虚空のように浸透しているのを見るがよいだろう。
こうして純粋なジュニャーナに自己を確立して、全被造物をわたしの顕われと見なして、彼らを崇め、ブラーフマナと低き生まれの者、ブラーフマナへの献身者と盗賊、太陽と火花、慈悲深き者と冷酷な者、彼らを等しく眺めたなら、ああ、悟れる魂よ、彼こそが賢者と呼ばれるに相応しいのである。
全ての人の中にわたしが臨在すると、たえずそのように見なす者の心からは、競争心や妬み、あざけり、自負心などは、すべて遠からず消えていくであろう。
家族や友に嘲笑されても気にせず、肉体ゆえに生じた思い(自分は誰それであるなど)を捨て去り、羞恥心を放棄して、丸太のように大地に身を投げ出し、犬やパリヤ、牛、ロバに至るすべての生き物に、低く自分の頭を下げるのだ。
あらゆる被造物は、主であるわたし自身の顕現だと、そのような思いが心に根を下ろすまでは、人は自らの言葉と心、身体を用いて、以上のようにわたしを礼拝すべきなのだ。
真我がすべてに遍満すると理解できたなら、やがて彼の眼には、すべてがブラフマンだと映るだろう。そして今までの疑問はすべて氷解して、すべての(利己的)活動は停止するに至るだろう。
自らの心と言葉、行為を用いて、すべての被造物をわたしの顕われと見なすこと、これこそがわたしへと通じる教えの中で、最高のものであると、わたしはそのように宣言するのである。
ああ、ウッダヴァよ、わたしによって説かれたこの正道を、ひとたび歩み始めたなら、失うものは何一つ存在していないのだ。なぜなら、そこに報いを求める思いはなく、グナにも影響を受けぬ道ゆえに、わたしによって完全な道と宣言されるからだ。
実りなきこの世的思いと活動も、それが報いを求めずに、主であるわたしに捧げられたなら、ああ、敬虔なるウッダヴァよ、それはダルマの基準にまで高められるであろう。
ここにこそ、人がこの世で死すべき肉体を通して、唯一の実在であり、不死であるわたしのもとへと至り得る、智慧ある者の智慧が存在しており、賢き者の賢さが存在するといえるのだ。」
アルジュナはクリシュナに対して、最も美しい形で礼拝を捧げた。
「あなた様を前からも後ろからも礼拝し、横からも斜めからも、あらゆる方向から礼拝いたします。
なぜなら、あなた様は無限の力と働きを持ち、どこにもおられ、あらゆるものになっておられますから。」
信仰の目的は、他を入れる余地のない愛を通じて神を悟ることである。
マハーバーラタにはこう説かれている。
「至高者ヴァースデーヴァよりも吉兆なるものは存在しない。ヴァースデーヴァよりも心を清めてくれるものは存在しない。ヴァースデーヴァよりもさらに礼拝するに相応しきデーヴァは存在しない。ヴァースデーヴァに平伏する者は、苦しむことはない。」
ビーシュマはこう言っている。
「シュリー・クリシュナにたった一度平伏するだけでも、その功徳は十回のアシュワメーダ(馬供養祭)のそれと等しい。アシュワメーダは解脱をもたらすことはないが、神への平伏は、人を神そのものにしてしまう。」
アクルーラはこの種のバクティ、つまりヴァンダナ・バクティを実践した。
彼の物語は、シュリーマド・バーガヴァタに説かれている。
バーガヴァタにはこう説かれている。
「敬虔な愛に圧倒されて、アクルーラはすぐに馬車から飛び降り、バララーマとシュリー・クリシュナの御足に棒のように平伏した。」
マハーバーラタには、長老の戦士ビーシュマが深い感情で声をつまらせ、主に礼拝を捧げると、シュリー・クリシュナがすぐさま、神の叡智の光を彼に与えた、ということが説かれている。
「このように祈りを捧げると、心が完全に神に没頭したビーシュマは『クリシュナに礼拝し奉ります』と言って、クリシュナに平伏した。ビーシュマの信仰の深さを知ったシュリー・ハリ、マーダヴァは、ヨーガの力を使って、三界を照らす神の叡智の光を授けた。」
エゴや自我意識は、神への心からの祈りと平伏によって、完全に消し去られる。そして神の恩寵が献身者に与えられ、彼は神となるのである。