バクティの精髄(14)
◎キールタナ(キールタン)
キールタナとは、至高者の栄光を歌うことである。
献身者はそれによって神への思いに喜び、わくわくし、ぞくぞくする。
彼は神への愛の中でエゴを失う。
神への最高の愛によって、鳥肌が立つ。
神の栄光を思い、泣く。そして涙で喉が詰まり、神のムードに没入する。
献身者は、常に神の御名を唱え、そして誰と話すときも、神の栄光だけを話す。
どこに行こうとも、彼は神を称える歌を歌う。
彼は皆に、キールタナに参加するように要求する。
彼は恍惚の中で歌い踊り、他者を踊らせたりもする。
これらは純粋な心から生じるものでなければならず、ただ単に他者に見せるための、偽りのものであってはならない。神は人々の心の内も含めすべてをご存じなので、神を騙すことはできないのである。
そこには完全な率直さがなければならず、そしてそれらすべての行動は、心から自然に流れ出るものでなければならない。
これは、神にアプローチするすべての方法の中で、最もやさしい道である。「カリユガ」や「鉄の時代」などといわれる現代においては、キールタナこそが最高のヨーガであり、定められた献身の道なのである。
献身者の心は、神の御名と栄光を歌うことに常に夢中になり、自然にこの世間への関心を失う。昼も夜も神の存在を感じ、エゴは減少していく。そして彼は心の底からサートウィックで純粋になる。
ナーラダ、ヴァールミーキー、シュカデーヴァなどの古代の大聖者たち、そしてゴウランガ、ナーナク、トゥルシーダース、スールダースなどの比較的近代の大聖者たちは皆、キールタナ・バクティだけで完成の境地に達した。大悪人アジャミラーでさえも、主の御名を唱えて輪廻の海を渡った。
ジャパとキールタナは、このカリユガで神を悟る修行法の中で、最も効果的なものである。
罪人でさえも神への献身によってこのマーヤーを超えることができるというならば、純粋な心を持ち、グルや国に奉仕し、罪人よりも神に近いであろう善人においては言うまでもないだろう。
キールタンが非常に効果的な信仰の修行法である理由は、もう一つある。
人間とは快楽が好きな生き物である。人は愛することを非常に好む。人は世俗の対象を愛さずにはいられない。しかしその愛とは単なる欲情であり、純粋な聖なる愛ではない。
人は、美しい音楽を聞くことや、美しいものを見ることや、踊りを見ることが好きである。
音楽は、冷酷な人の心さえをも溶かす。仮にこの世に、即座に人間の心を変えることができるものがあるとしたら、それは音楽と踊りであろう。
このメソッドがまさにキールタナ・バクティに用いられているのであるが、それは感覚的な快楽の代わりに、神に向けられるのである。人間の快楽主義的な感情は神に向け、それでいて、音楽や歌を愛する気持ちは滅してはいけない。なぜならば、そのような自分が非常に大切にしている心情をすぐに滅してしまうことは、人を完成に導くことにはならないからである。
キールタナは、甘美で楽しいものであり、心を簡単に変えてしまう。
シュカ・マハーリシは、キールタナ・バクタの模範である。彼はパリークシットにバーガヴァタを説いた。彼はバーガヴァタを唱えている間、完全にバーヴァ・サマーディに入っていた。
シュリー・シュカが主の栄光を歌っているときに、デーヴァたちが天界から降りてきて、さまざまな楽器を使ってキールタンを演奏したということは、バーガヴァタ・マーハートミャに説かれている。ナーラダはヴィーナを演奏し、インドラはムリダンガを叩いた。プラフラーダがシンバルを鳴らしながら踊ると、シヴァご自身がヌリティヤ(舞踏)を踊り始めた。そして主ヴィシュヌが現われた。そこに集まっていた者たちは皆、シュリー・シュカの特別な踊りに歓喜で震えた。
キールタナは、在家修行者にとっても適切な修行法である。キールタナは心に喜びを与え、同時にハートを浄化する。二重の効果があるのだ。キールタナはおそらく、どんな人にも最高に適切な修行法であろう。
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