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バクティの精髄(12)

「ナヴァ・ヴィダー・バクティ(バクティの九つのプロセス)」

◎序文

 神への信仰は、九つの方法で育てることができる。神への信仰とは、バクタの中の卓越したバーヴァを用いた、神への極度の愛着である。強烈な愛は、九つの方法すべてに共通する要素である。その他の対象を度外視するような神への愛は、さまざまな方法で表現されている。この類のバクタたちは皆、世界の慣習を超越している。彼らは、人間のダルマとは無縁であり、徹底して神のことばかりを考えている。その例証として、以下の詩が述べられている。

「ヴィヤダシャチャラナム ドゥルヴァシャ チャ ヴァヨー ヴィディヤー ガジェーンドラシャ カ
 カ ジャティル ヴィドゥラシャ ヤダヴァパテール ウグラシャ キム パウルシャム
 クブジャヤー カマネーヤルパム アディカム キム タット スダンノー ダナム
 バクテャ トゥシュヤティ ケーヴァラム ナ トゥ グナイ バクタプリヨー マーダヴァー」

「あの狩人の行為が何だというのだ? ドゥルヴァの年齢が何だというのだ? ガジェーンドラの学識が何だというのだ? ヴィドゥラのカーストが何だというのだ? ウグラセーナの努力が何だというのだ? クブジャの体の外見が何だというのだ? スダマの貧しさが何だというのだ? 主マーダヴァは、強烈な信仰(バクティ)だけを喜ばれ、その他の性質には喜ばれない。」

 狩人は動物を殺していた。ドゥルヴァは五歳の少年だった。ガジェーンドラは学識のない象だった。ヴィドゥラはシュードラ(奴隷)のカーストだった。ウグラセーナは自分で何の努力もせず、ただ何もせずに座っていただけだった。クブジャは、せむしの非常に醜い女だった。スダマは最も貧しい人間の一人だった。しかし、主はそのバクタたちの欠点を見ることなく、ただ彼らの信仰心を受け入れ、彼ら全員に祝福を与えた。

 完璧にダルマに従って為される善行は、純粋なバクティを補助する。それはどこへ行こうとも、真のバクタたちの後に従う。心がひねくれていたり、この現世に愛する対象を持っていたり、この魅力的な世俗のものに心惹かれたり、妻や子供や縁者を大事にしたいと思ったり、たっぷりと食べ物を食べたいと思ったり、この世で素晴らしい名誉を得たいと思ったり、この世に永遠の名声を確立したいと思ったり、この世の魅力的なものを放棄したくないと思ったりする者は、神への真のバクティを育てることはできない。すべての対象への完全なる無執着は、真の信仰の前身である。ヴァイラーギャ(放棄)は、神への真の愛を生み出す。世俗を愛する者は、神への愛を持つことができない。カーマがあるところに、ラーマはありえない。ラーマがあるところにも、カーマはありえない。世俗への愛と神への愛は両立できないのである。あるものを達成するためには、その他のものを放棄しなければならない。この放棄は、九つのバクティのフォームを通じて取得できる。

 シュリーマド・バーガヴァタとヴィシュヌ・プラーナには、バクティの九つのフォームとは、シュラヴァナ(神のリーラー、物語を聞くこと)、キールタナ(主の栄光を歌うこと)、スマラナ(主の御名と臨在を思い続けること)、パダセーヴァナ(主の御足への奉仕)、アルチャナ(主の礼拝)、ヴァンダナ(主への平伏)、ダーシャ(神のしもべのバーヴァを培うこと)、サキャ(神の友達のバーヴァを培うこと)、そしてアートマ・ニヴェーダナ(自己の完全なる明け渡し)であると説かれている。

 シュラヴァナム キールタナム ヴィシュノー スマラナム パダセーヴァナム
 アルチャナム ヴァンダナム ダーシャム サキャム アートマニヴェーダナム

 献身者は、自分に合った修行法でバクティを修行することができる。そしてそれを通して彼は神の光輝を成就する。

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