yoga school kailas

「聖者の生涯 ナーロー」⑧(8)

◎弟子の器

 はい、ちょっとまた話を戻すけども、そうしないと入らない教えがある。つまりこれはさ、本当に切実な問題なんです。切実な問題っていうのはどういうことかっていうと、教えがね、例えば牛乳だったとするよ。牛乳だったとした場合「入らない」っていうのは、例えばT君がいたとしたら、T君っていうコップがあったとしてね、逆さかもしれないんです。逆さになってるんです。逆さになりながらT君は、「教えください。教えください」って言ってるんです。で、わたしはそれを逆さだって指摘したいんだけど、この世界っておもしろいもんで、言葉は通じないんです。つまりT君が自分で気づいてコップを裏返すしかないんだね。で、それがもしできないとしたら、物理的にわたしが思い切りそれを裏返すとか、あるいは裏返すのを嫌がったら、今度はぶち壊してちゃんとした方向で作り直すとか、それをやるしかないんだね。これがだから器を規定するっていう意味ですね。だからちゃんと牛乳が入れられるコップの向きにそれを変える作業が必要なんです。これがイニシエーションなんです。
 あるいはね、コップの向きは正しかったとしても、穴が開いてる場合がある。ね。T君が「牛乳ください」って言ってるんだけど、下に穴が開いてると。これは当然入れられないよね。この場合はこの穴を塞ぐ作業が必要になる。これがイニシエーションなんです。
 あるいはT君が持ってきたコップが、和紙かなんかでできたコップの場合がある。それは牛乳入れたら穴が開いて溶けてしまうかもしれない。その場合も、もうそもそもコップから作り直さなきゃいけない。いろんな意味がある。
 あるいはコップの中が汚れてる場合がある。昔Mさんが――ここまで言ったら分かるかもしれないけど(笑)、Mさんがカイラスに来たばっかりの頃にね(笑)、わたしは実は言われるまで覚えてなかったんだけど、Mさんにわたしが――その頃まだわたし一人で全部やってたから――Mさんが来たときにコップにハーブティーを出してあげたんだね。ハーブティーを出してあげたら、Mさんが飲んだんだけど、最後まで飲まなかったんだね。で、後で聞いたら、わたしが前にそのコップで牛乳かなんか飲んで、よく洗ってなくて、こびりついてたのがあって、それが浮いてたっていうんだね(笑)。浮いてたけど、Mさんもまだわたしとそんなに親しくないし(笑)、どう言っていいか分かんなくて、ちょっとだけ飲んだっていう話があって(笑)。まあそれはどうでもいいんだけど(笑)、まあそういう感じで、内側にもし汚れがこびりついてたら、なんか飲み物入れたときにその汚れが混ざっちゃってね、よくないかもしれない(笑)。その場合はその内側の汚れを洗わなきゃいけない。これがイニシエーションなんです。
 つまりここでいってる器っていうのは、修行者の器ね。例えば表面的に何かマントラを与えたとしても、表面的にある種の瞑想を与えたとしても、それが入らない場合がある。入らない場合は、入れる器をその弟子に作ってあげなきゃいけない。

◎すべてがイニシエーションに

 ところで実際問題としては、入らないけども教える場合があります。というよりも、その場合の方が多いと考えてください。つまりそれは何なのかというと、一応与えといて、で、同時に器作りをやるんだね。この場合の方が実際は多いかもしれない。つまり実際に修行進めつつ、例えば「はい、じゃあこのマントラこれくらい唱えてください」とか、あるいはいろんな瞑想法を日々やってると。で、それと同時に神の祝福によって、いろんな出来事によって、じわじわと皆さんの器が作り直され、それがある段階で完璧にその器になったとき、そのときに初めてその修行が皆さんにとって身のある、本当に皆さんを変えるものとして機能しだすっていうかな。
 だからそういう意味でも教えっていうのは、非常に分かりづらいっていうか、表面的ではないんだね。表面的にポンポンポンとこの教えがあって――だからよく本とかに書いてるように、この教えを十万回、この教えを十万回、この教えを十万回。はい。例えば師匠にもつかないで、誰とも接さないで一人で山に籠って、この教えをポンポンポンとやれば悟るとか、そういう世界ではないんだね。そうじゃなくて、そこには必ずエゴを破壊する何らかの現象であったりが必要なんですね。それは皆さんが神に、あるいは解脱というものに、あるいは真理というものに心が向かってれば向かってるほど、その祝福っていうのは強烈に、あるいは速やかにやってきます。
 だから皆さんにとっては、もともとバクティヨーガとかの考えでは、すべて受け入れるっていう考えがあるわけだけど、いつも言うように、われわれが現代日本という、この一般的にいえば修行とかしづらい時代に生まれてきてるわけだけども、これも実際は悪いこととはいえないんだね。これもまた神によってセッティングされた、われわれにとってのイニシエーションなのかもしれない。
 つまりこの日本に生きて、あるいは皆さんの場合はこういうカイラスという場所があって、そこで法友がいてね、あるいはその法友と関係のない家族とか友達とかもいて、あるいは仕事とかもあって――この流れの中で、皆さんが皆さんなりに真理を追求していくと。あるいは修行を進めていくと。ここで起きるさまざまな現象のすべてが――いいですか?――皆さんの心が純粋であるならば、イニシエーションになります。不純であるならば、単なるエゴを増大させるカルマ的現象になるかもしれない。
 それは実際には、何割かがイニシエーション、何割かが不純な現象っていう感じだと思う。だからその中でそれを読み違えないようにしなきゃいけないね。つまり自分に訪れた自分の器を作るための、例えば浄化の現象であるとか、苦しみの現象であるとか来るかもしれない。あるいは自分を変えてくれるようないろんな現象があるかもしれない。それを読み違えて逃げたりとか、あるいはそこで修行をやめてしまったりとか、そうしないようにしなきゃいけないね。非常に分かりづらい話ではあるけどね。
 はい、ちょっと長くなっちゃいましたが――ここで教えた転移のヨーガっていうのは、これはいわゆる意識を移しかえる――つまり簡単に言うと、死後好きなところに行くためのヨーガです。つまり死んだ瞬間に自分の意識をポーンッと頭から抜いて、例えば浄土に行ったりとか。あるいは救済したい場合は、自分の好きなところに生まれ変わって救済するためのヨーガです。
 で、この転移のヨーガっていうのは、実際は保険みたいなものだと考えてください。保険みたいなものっていうのは、その人が生きてる間に完全な解脱に達していれば、この転移のヨーガは必要ないんです。だって自然にいい世界に行くし、あるいは自然に自分の転生をコントロールできるようになってるから。でもこの転移のヨーガっていうのはそういう意味でいったら、完全な解脱ができなかった場合にも、このテクニックをちゃんと使えるようになってれば、ある程度転生はコントロールできますよっていうヨーガです、これはね。

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