ド・キェンツェー・イェシェー・ドルジェの生涯(5)
デゲ宮殿の者が、彼の中央チベットへの長旅のために必要な準備をすべて整えました。出発時にド・キェンツェーは、ドドゥプチェンと別れることにひどい悲しみを覚え、胸が張り裂けそうになり、その小さな両手でドドゥプチェンをきつく抱きしめ続けました。そのため、ドドゥプチェンの甥のジグメ・チャンチュプ《Jigme Chanchup》は、無理やり彼を引き離さなくてはなりませんでした。
ド・キェンツェーと彼の両親それから妹は、何ヶ月にもわたる長旅の末、ディクンのヤン・リ・ガルに、大きな一団とともに到着しました。彼はディクンの系統の二つの代表、コン・ニョンの息子であるシャプトゥン・テンジン・ペマ・ギェルツェン(1770-1826年)と、ジグメ・リンパの息子であるギャルセー・ニンチェ・オーセル(またはチョキィ・ギェルセン)によって受け入れられました。そして仰々しい式典が行われ、正式に承認されました。そのときから、ディクンのゾンサルが彼の主な住居となりました。ジグメ・リンパの仲間と甥であるギェルユム・ドルカとオーセル・タイェが、ツェリン・ジョンから彼に会いにやって来ました。しばらくして、彼の両親と妹はゴロクへと向かいました。
彼は書物を読んで学んでいる時は、日に一ページ記憶することができ、それは平均的に悪くない方でした。しかし学者による口頭での教えに関してはそのすべてを繰り返すことができ、それは並はずれたことでした。学者はこう言いました。
「ド・キェンツェーは、言葉よりもむしろその意味をつかむ者になるだろう。」
当初、ドドゥプチェンの甥であるチャンチュプは彼の家庭教師としてとどまっていましたが、後にドドゥプチェンは人をニマ・ギェルツェンのもとに送り、チャンチュプと交代させました。
彼はシャプトゥン、ギェルセー、それからツルプのギェルツァプや他の多くの経験豊富な訪問者から数多くの伝授を受けました。