ドッキネッショルの寺院で信者たちと共に(4)
【無邪気と神の体得】
「ブラフマンとシャクティーは、切り離せないものだ。シャクティーを認めなければ、世界は非実在になってしまう。私、お前、家も建造物も、そして家族――みーんな嘘だ、錯覚だ。このアディヤシャクティーがあるからこそ、この世界は成り立っているのだ。もし心棒がなくては枠は組めない。そうすると美しいドゥルガーの神像も作れない。
世俗の知恵を捨てなければ、霊性は目覚めないよ。至高至聖のものがつかめない。世俗知がたとえ痕跡でも残っている間は、彼は偽善者になる。無邪気にならなけりゃ、あのお方に触れることはできないよ。
欺瞞と小利口さらりと捨てて
心に愛を抱け
奉仕、祈り、無欲と素直さと
内にも外にも心の底から
あふれるばかりの信仰あれば
今すぐラーマのお身内よ
世間的な仕事に従事している人たち――つまり役所や会社に勤めたり商売している人たちだって、誠実でなけりゃ! 誠実であるということが今の時代の修行だよ。」
プランクリシュナ「『真実にあふれ、五官の迷いに打ち勝ち、世のためにつくす人は高貴なるかな。正法に生きる人、それは神そのものなり。』マハーニルヴァーナ・タントラにこう書いてございます。」
シュリー・ラーマクリシュナ「うん、そういうことが消化されなければだめだ。」
シュリー・ラーマクリシュナは小さいベッドの上で、ご自分の座り方で座っておられた。こうした場合は通常、彼は法悦のバーヴァ状態である。慈愛のこもったまなざしでラカールを眺めておられる。そのうちに、親のような愛情が満ち溢れた様子で、お体がゾクゾク震えてきた。ちょうどこんな目つきで、ヤショーダーはゴーパーラを見ていたのだろうか?
やがてまたタクルはサマーディにお入りになった。信者たちは、感嘆のあまり水を打ったように静まり返って、タクル、シュリー・ラーマクリシュナの、この素晴らしいご様子を眺めている。
半ば普通の状態に戻られ、こんなことをおっしゃた――
「ラカールを見ると、どうしてこんなに興奮するのかな? とにかく、先へ進めば進むほど、神様のいかめしさは少なくなってくる。求道者は初めのころは、十本腕のドゥルガーの姿を得る。その姿の中には神様の威光がうんと多くあらわされているんだ。次の段階では二本腕の祭神の姿で――もう手が十本もついていないし、大げさな戦道具も持っていない。その次はゴーパーラのヴィジョンが見える。何一つ威光を示すものもないただの幼児の形だ。それを超えると、まだその後がある――ただ光を見るだけになる。」
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