スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(45)
1915年8月14日
アルモラにて
親愛なるビハリ・バブーへ
これが肉体の性質なのです。時間が幼年期を使い果たし、そして青年期に移行し、青年期は老年期に移行します。肉体は日に日に衰えていきます。
「人間の肉体は永続するものではない。」
「生まれた者は死ななければならない。死なない者がいるでしょうか? また、これまで死ななかった者がいたでしょうか?」
肉体の苦しみに悩まされない人は本当に幸運です。自己を肉体とは別のものと知ることは、ささいなことではありません。そのような人は、神の恩寵によって最高の至福を味わうのです。
なぜそんなにも自分の妻や子供のことを心配するのですか? わたしはこう言ったはずです。
「すべてを神に明け渡し、平安であってください。妻、息子、そして一切のものは彼のものであり、あなたの責任は彼らの面倒を見ることです」と。
師がこうおっしゃっていたように。
「金持ちの女中は彼女は主家の子供たちを、まるで自分の子であるかのように育てる。しかし心の中では、彼らは決して自分のものではないということをよく知っている。 そして、彼女の家はまた別のところにあるのだ。」
あなたは心で放棄すべきなのです。無執着になり、あなたの家族は主のものだと知ってください。あなたのような献身者にとっては何の障害もありません。障害は、議論を通じて神を知ろうとする者に生じるのです。
あなたのような人のために、クリシュナはこうおっしゃっています。
「彼らに対する慈悲の心から、私は彼らの胸に宿り、輝く完全なる叡智の灯火をもって、無智から生じる彼らの心の闇を打ち破ってやるのだ。……常に自分の心を私に結び付けている人たちにとって、私は、彼らを速やかに生死の海から救う救い主となるのだ。……私が、すべての悪しきことから君を守ってあげよう。」[ギーター、第十章.十一節、第十二章.七節、第十八章.六十六節]
主御自身が、あなたに対する全責任を持ってくださっているのです。
「神は、幸運な者の重荷を背負ってくださっているのです」という格言があります。あなたがたはみな、幸運な人です。あなたが引用していた詩は、再び生まれることを恐れる、智慧の道に従う者に対するものです。しかし、主の献身者たちは、こう祈るのです。
「ああ、クリシュナよ。わたしは、たとえ虫、鳥、獣、爬虫類、悪魔、悪鬼、または人、そしてどこに生まれようとも、あなたの恩寵によって、あなたへのけっして揺ぐことのない信仰を持てますように。」[プラパンナ・ギーター]
師はわたしにこうおっしゃいました。
「ニルヴァーナを求める者たちは、さもしい心の持ち主である。彼らは恐怖で一杯なのだ。彼らはちょうど、早くあがりに達しようといつもあせっているパルチージ(インドすごろく)の遊び手のようなものだ。素人の遊び手は、一度自分の駒をあがりに送り込んだら、二度とそれを外へ出したがらない。そのような遊び手は下手なのだ。熟練した遊び手は、もしもう一度外に出ることによって相手をつかまえる機会が得られるなら、決してそうすることを恐れはしない。それから、相応しい目をふってもう一度あがりに戻るのだ。それはまるで、彼がサイコロをふる度に彼にとって都合のよい数が現われてくるように思える。だから恐れてはいけない。少しも恐れず遊戯をせよ」と。
「それは実際に起こるのでございますか?」とわたしは尋ねました。
「もちろん、母なる神の恩寵によって、あらゆることが起こるのだ。母は人びとが遊ぶのをお好みになるのだ。かくれんぼ遊びを例にとろう。(この遊びには、一人のおばあさんと、一人の目隠しをされた鬼と、そして鬼につかまるまいと逃げ回る子供たちとがいる。)おばあさんは子供たちを走りまわらせ、ゲームを進行させたいのだ。もし必要と思えば、彼女はある子供が鬼につかまらないよう救いの手を伸ばすこともあるだろう。同じように、母なる神はニルヴァーナを求める者たちをお喜びにならないであろう、彼らは遊びをやめたいと思っているのだから。彼女は遊びを続けたいとお思いになっていらっしゃるのだもの。だから、バクタたちはニルヴァーナを求めない。彼らは、おお心よ、砂糖になるのはよくないぞ。私は砂糖をなめたいのだ、と言う」と。
師はわたしに何度もこうおっしゃいました。
「聖典の中に何があるのかね? もろもろの聖典は、買う品物の名を書きつけた紙切れのようなものなのだ。それらは、品物が全部集まっているかどうかを照合するために要るだけである。照合がすんだら、書つけは捨て去られるのである。だから、お前は自分の知識を、信仰を照合せよ。聖典を読んで、その通りであるかどうか調べてみよ。“絶対者の智慧を得れば、聖典は一すじの藁の値打ちしかない”と言われている。」
母なる神は、ラーマクリシュナに数々の経典、プラーナ、タントラの書物の内容をお示しになりました。だから、彼は学問のない御方ではありましたが、学者たちの高慢を抑えることがおできになりました。彼はよくこうおっしゃいました。
「もし母なる神からほんの一すじの光を頂くことができたなら、一切の学識をして顔色無からしめることができるのだよ」と。
あなたは智慧の宝を得るために全力で取り組んでおられます。信仰の宝を集めることによって、神の至福を味わうでしょう。まさにその宝[シュリー・ラーマクリシュナ]が――われわれの幸運、または彼の無条件の慈悲によって――われわれの前に現われてくださいました。したがって、われわれに必要なことは、心と魂のすべてを込めて彼を愛することだけであり、その後、他の一切のことはおのずと生じるでしょう。
もし彼を愛することができるなら、人は世間を忘れます。そして彼の恩寵によって、肉体意識も消え去るのです。苦行や思索を通じた成功――そのようなことを信じている者には、そうさせておけばいいのです――に関して言うと、われわれはその点に関して失望しているので、師に帰依してきたのです。今われわれは「彼のお好きなようにしていただこう」と思いつつ、彼の戸口で待っているのです。わたしは彼があなたの帰依処でもあることを知っているので、何の恐れもありません。
愛と最高の願いを込めて
トゥリヤーナンダ
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